向坂くじら&百万年書房・北尾修一の文芸をめぐる対話。『とても小さな理解のための』に見る「詩」の尊さ
向坂が「詩人」と名乗り続ける理由。詩・エッセイ・小説の違いとは
─エッセイ集『夫婦間における愛の適温』『犬ではないと言われた犬』についても聞かせてください。詩人である向坂さんがエッセイを書くことになった経緯は? 北尾:百万年書房で「暮らし」というレーベルを立ち上げようと思いついたとき、すぐにくじらさんに声をかけました。詩だけではなく、くじらさんはエッセイを書いても面白いことはその前から知っていたので。 向坂:当時、わたしは仕事としてきちんと書籍化を目指して作品をつくっていくのが初めてでした。 ─向坂さんは詩もエッセイも、小説も書かれていますが、何か作品の種を見つけたときに、アウトプットの手法はどうやって決めるのですか? 向坂:日々、暮らしのなかで思ったことはスマホにメモをしているのですが、その時点でなんとなく「これはエッセイ」「これは詩」といったようにジャンル分けしています。ジャンル分けを無視しちゃうときももちろんありますが。 感覚としては、どんなアイデアでも詩にはなる。そのつぎが小説。でも、小説は一つひとつが長くて体力が要るんですよね。だからノリでたくさんつくれないんです。そして、1番ネタとして貴重なのが、エッセイ。お恥ずかしい話、周囲の人の目が気になるので、他人との関係が持続できる程度のことしかエッセイには書けないんです。 向坂:こう言うと詩が1番雑な感じに聞こえるかもしれませんね。でも、小説にもエッセイにもならないことが詩になっていて、結局それが自分にとって1番大事なことという感覚もあります。 ─活動の幅が広がったいまでも、向坂さんが肩書きとして「詩人」を使っているのは、そういった意識も関係していますか? 向坂:そうですね、何にしても「詩人」という肩書きを最初に出しますね。大学を卒業してうっかり無職になってしまったときに、詩人の大島健夫さんが「詩人って名乗ればいいじゃん」というようなことを言ってくれたんですよね。 わたしとしては、本を出しているわけでもないし、売れているわけではないのに、良いのかな?と思いつつ、周りを見たらそれでも詩人と名乗っている人がいて。稼げているとかそういうことと関係なく、詩人である人たちがいることを知っていて、そこに誇りを持っていたいという気持ちもあります。 北尾:詩人って、最後の駆け込み寺感がありますね。覚悟さえあれば、じつは名乗ればなれる。もちろん資格なんて必要ないし。