次々と事業を立ち上げる『まんぷく』萬平のモデル・百福が陥った絶体絶命のピンチとは…百福とその妻が不思議な出会いを果たすまで
2018年に放送されたNHK連続テレビ小説『まんぷく』がNHK BSとBSプレミアム4Kで再放送され、再び話題となっています。『まんぷく』のヒロイン・福子のモデルとなった、安藤仁子さんは一体どのような人物だったのでしょうか。安藤百福発明記念館横浜で館長を務めた筒井之隆さんが、親族らへのインタビューや手帳や日記から明らかになった安藤さんの人物像を紹介するのが当連載。今回のテーマは「若き日の百福 ~実業家への挑戦」です。 【写真】若き日の百福 * * * * * * * ◆百福の原体験 百福は『まんぷく』のヒロイン福子のモデル・仁子と出会うまでどんな人生を過ごしてきたのでしょうか。二人を引き寄せた運命の糸をたどってみます。 百福は1910(明治43)年3月5日、日本の統治下にあった台湾の地方都市、台南県東石郡朴子街に生まれました。 幼い頃に両親を亡くしました。兄が二人、妹が一人いて、子どもたち四人は祖父母のもとに引き取られました。百福は、親の面影を知らずに育ったのです。祖父の実家は織物を扱う呉服屋でした。戦前の商家はどこでもそうですが、子どものしつけは厳しく、百福も物心がつく頃には掃除、洗濯、炊事から雑用まで、なんでも言いつけられました。 百福は妹と一緒に離れ部屋で生活を始めます。親がいなくてさびしいなどと思う暇もないほど、店の中は賑やかでした。客がひっきりなしに出入りし、商品の荷受けや出荷のたびに威勢のいい掛け声が飛び交います。パタンパタンと織機の音が響きます。食事時になると、家族の他に使用人が混じって大きなテーブルを囲みます。店の活気が、百福の子ども心をとらえました。「商売は面白いな」と。 これが生涯を実業家として歩んだ百福の原体験となったのです。
◆「何か自分で商売を起こしたい」 数字に強い関心を示し、いつも大きな五つ玉のそろばんに触って遊んでいました。そのお陰で、幼少時から足し算、引き算、かけ算ができたそうです。高等小学校に通うようになると、暗いうちに起きて朝食の用意をし、妹の弁当を作って学校に送り出しました。小さい頃から料理が得意だったのです。 学校を卒業すると、さっそく祖父の仕事を手伝います。しばらくすると、東石郡守(知事)の森永という人から、「図書館の司書にならないか」と声をかけられます。どこかほかの子どもとは違う大人びたところがあったからでしょう。喜んで引き受けましたが、毎日、本の貸し出し、受け取り、棚の整理ばかりで、どうも仕事が性に合いません。 「何か自分で商売を起こしたい」という気持ちを抑えられなくなります。 「どうせやるなら、誰もやっていないことをやりたい」 二十二歳になった時、独立を決意します。「東洋莫大小(メリヤス)」という会社を台北市永楽町に設立します。資本金は当時のお金で十九万円でした。費用は祖父が管理してくれていた父の遺産を役立てました。 メリヤスはポルトガル語で靴下という意味で、絹糸や毛糸を編み、伸縮性のある繊維に仕立てたものです。当時、新しい編み機が登場して、大流行する兆しがありました。編み物のメリヤスの仕事なら、祖父の織物業の邪魔にならないだろうという配慮もありました。 百福はいつも、メーカーに自分が考えた素材やデザインで特注品を作らせました。これが大当たりします。日本で仕入れて台湾に輸出するのですが、いくら作らせても間に合いません。大阪南船場に「日東商会」という貿易商社を作りました。ここを日本の事業拠点として、次々と新しい仕事に取り組むことになるのです。
【関連記事】
- 戦争が終わって最愛の人と一つ屋根の下。服部良一も戻り「喜劇王」と共演…『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子にやってきた<人生最良の日々>とは
- 『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子が吉本創業者の息子と一つ屋根の下で暮らした期間はあまりに短く…不治の病と空襲の恐怖になぜ二人は打ち勝てたのか
- 『まんぷく』福子のモデル・安藤仁子は百福からアプローチを受けるも、なぜか一旦断り…第一次大阪大空襲のたった八日後、戦火の合間を縫うように結婚式を挙げて
- 『まんぷく』福子のモデル・安藤仁子 幼稚園も小学校も入学式にすら出席できず。高校は休学して働きに…「武士の娘」の意地で生き抜いた幼少期の<極貧生活>とは
- 『まんぷく』福子のモデル・安藤仁子。父の会社の倒産で育ち盛りなのに食べるものがない…貧しくとも娘三人いれば、家の中に明るい笑いが絶えなかった少女時代