ボート競技で摂食障害、ガールズケイリン転向後は“センスなし”自覚 縁が助けた30歳からの競輪人生/林真奈美インタビュー
恩師のもとで“運命の出会い”が
看護の道へ進もうと決めアルバイトに区切りをつけたタイミングで、運命が大きく動いた。 「恩師がボート部のトレーニングにワットバイクを導入するから『真奈美もおいで』と誘ってくれて、最後に皆で体験として測定をしてみたら、数値が良かったんです。その数字を見たワットバイクの方が『ガールズケイリン、どうですか』って声をかけてくれたんです」 ガールズケイリンとの思わぬ出会い。だが、すぐに答えは出せなかった。 「精根尽き果ててボートを辞めている私が、またスポーツをやれるのか不安もあったし悩みました。でもワットバイクの大木社長はボート競技時代の私を知っていてポテンシャルを買ってくれていたんです」 そんな大木社長に勧められ、ガールズケイリンへの興味はふくらんだ。帰宅して家族でガールズケイリンを検索、YouTubeで動画を見て挑戦したい気持ちが湧き、大木社長に会うため東京を訪れた。 「大木社長が交流のあった後閑信一さん、中村由香里さんと話をする機会を作ってくださり、京王閣競輪場を訪ねました。1期生の中村さんが学校の先生を辞めて挑戦したというお話が印象的で、年齢は関係ないということを知りました。ボート競技は減量生活が厳しかったけど、競輪は食事をしっかりとって健康的にスポーツができる最後の機会かなと思いました。ここまでいろんな方とつながったことも縁だと思って、ガールズケイリンに挑戦することを決めました」
自転車のセンスなし!?「一発合格じゃなければ諦める」
地元に戻り、競輪選手を目指すために問い合わせると日田から最も近い久留米競輪を紹介された。そして当時選手会の支部長をしていた藤田剣次に弟子入りすることになった。 当時から久留米はガールズケイリンの強豪選手が集まっていた。106期の小林優香が日本競輪学校を卒業しデビューを控えている状況で、林は110期の試験を目指して自転車に乗り始めた。 「師匠からは『試験まで時間があるし、まず自転車に乗ろう。適性ではなく技能で受かるように練習をしていこう』と言われました。でも自転車に乗り始めても特別なセンスはないと自覚しました。当時の久留米は(小林)優香がデビューして、(児玉)碧衣が競輪学校に入学して、1期下に高校で活躍している(大久保)花梨がいて…。今は笑って話せるけど、当時は比べられるのがつらかったです」 当時から次々に若きスター候補が出現していた久留米で、“オールドルーキー練習生”の林は久留米のレベルを下げてしまうと肩身の狭い思いをしていた。厳しい言葉もあったが、すべては自身の将来を思ってのことと受け止めていた。 「久留米では、優香や碧衣のようなセンスはないねと言われていました。ただ自覚もあったから、しっかり練習だけはやりました。師匠からは『スポーツ経験者は1回で受からないなら辞めた方がいい。プロになってからも厳しいと思うから』と言われていて、自分も競輪学校の試験も1回で受からなかったら諦めようと思っていました。年齢的にも厳しいと思っていたので」 ボート競技時代との大きな違いはやはり食事だった。体重を気にせずしっかり食事をとり、時には甘い物も食べてしっかりトレーニングをする。きわめて健康的な生活を送ることができた。なにより110期の競輪学校の試験に向けて、練習だけはとにかく一生懸命にやり切った。 入学試験を目前にしても不安は消えなかったというが、無事に1次試験を突破。学科と面接の2次試験は難なくクリアし、一発合格で日本競輪学校への入学をつかみとった。 110期では“年上組”として競輪学校の門を叩いた。 「それまでは周りにレベルの高い久留米の先輩期がいてプレッシャーを感じていたけど、入学後は同期に助けられました。自転車のことは全くの素人でしたが、高卒現役組で自転車競技をやっていた鈴木奈央ちゃん、大谷杏奈ちゃん、坂本咲ちゃん(引退)はとにかく優しくいろいろ教えてくれました。人のことを思いやることができる生徒がそろった110期で本当によかったです」 1年間の学校生活で力を付け、在校成績は4位。卒業記念レースでは決勝進出も果たし(7着)、「センスがない」と感じていたのが嘘のような好成績を残した。