「ハリルに戦力外通告された後、FC東京が」ルーズなブラジル人がJ通算99発の“神助っ人”になるまで「日本の教えに感謝…エンドウは天才だ」
ガンバに移籍した“決定的理由”とは
――どうしてこの苦境を乗り越えることができたのでしょうか? 「まず、原(博実)監督が僕の能力を信じ、結果が出なくても先発で起用してくれたこと。当初、アマラオ(2003年まで在籍)と同じようなプレーをすることを求められた。でも、僕は左右へ流れてボールを受けてリズムを作るタイプ。やがて、原さんはそのことを理解してくれた」 ――2004年は27試合出場11得点。ナビスコ杯では準決勝の東京ヴェルディ戦でハットトリックを達成して勝利の立役者となり、優勝に貢献しました。ただし、2005年は横浜F・マリノス戦でCBジャーンと激突し、脳震盪で病院へ緊急搬送されるアクシデントがあった。 「この年のリーグ後半は不調で、一時はブラジル帰国を考えた。でも、2006年に監督がガーロに代わり、トップ下でプレーして調子を取り戻した」 ――2006年は18得点、2007年も12得点とまずまずだった。この年の末、ガンバ大阪へ移籍した理由は? 「FC東京は家族的な雰囲気の素晴らしいクラブだったけれど、Jリーグ制覇には手が届かなかった。契約が満了し、ガンバ大阪からオファーを受け、大きなタイトルを取れるチームだと考えた」
エンドウ…何が起きても全く動じないんだ
――その願い通り、2008年にはAFCチャンピオンズリーグと天皇杯を制覇します。 「ガンバは経験豊富な西野朗監督が率いており、遠藤保仁というレジェンドがいて、勝者のメンタリティーがあった」 ――遠藤のすごいところは? 「テクニックも状況判断も素晴らしいんだけど、最大の特長はあの冷静さ。何が起きても全く動じない。コロコロPKがその典型だけど、周囲をよく観察しながらも、決して自分のペースを崩さない。ハーフタイムに西野監督が選手たちに話をしていても、彼は平気な顔をして風呂に入っている。まるで、監督が何を言いたいのか僕は全部わかってますから、と言わんばかりにね。そして、実際に彼はすべてを理解している(笑)。天才だね」 ――ガンバ大阪では、2009年、2010年も活躍します。7年続けて日本でプレーしたわけですが、欧州で活躍する夢を諦めたのですか? 「実は、複数の欧州クラブからオファーを受けた。でも、日本でのキャリアと生活が予想以上に素晴らしかったので、日本でプレーを続けることを選んだ」 ――2011年、ブラジルへ帰国して古巣のアトレチコ・パラナエンセに入団しますが、この年をもって現役を引退します。 「当時、32歳だったんだけど、10歳のときからフットボール中心の生活を送ってきて、少し意欲が低下したと感じていた。練習をするのも億劫になり、もう潮時だと考えた。クラブには、盛大な引退セレモニーをしてもらった」
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