<文楽>二代目吉田玉男襲名披露、大阪で開幕
<文楽>二代目吉田玉男襲名披露、大阪で開幕 THE PAGE大阪
桜満開の大阪、文楽界でも大きな桜が花開いた。主軸として活躍する人形遣いの吉田玉女(61)が、文楽人形遣いの最高峰と謳われた師匠の名跡を継ぎ、「吉田玉男」を襲名、新たな一歩を踏み出した。「師匠の(人形の)足を10年、左を25年やらせていただいた。ずっと背中を追ってきた師匠の名前を継がせてもらえるのは嬉しい限り。いろいろ教えていただき、お父さんのようでもあった師匠への感謝の気持ちで一生懸命舞台を務め、少しでも師匠に近づけるよう一歩ずつ階段を上っていきたい」 晴れの門出を迎え、大きな名を担っていく決意を語った。
選んだ演目は、初代も得意とした「一谷嫩軍記」
大阪での襲名披露(4月、国立文楽劇場)に選んだ演目は、初代玉男も得意とした「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」。「平家物語」の一ノ谷の合戦で熊谷次郎直実が平敦盛を討ち取った物語を題材にした時代物の名作だ。その3段目「熊谷桜の段/熊谷陣屋の段」の主役、武将・熊谷直実で、二代目として歩み出す。 35年前、若手の会(向上会)で主遣いとして初めて主役級の大役を遣ったのがこの熊谷直実だった。そのとき「師匠が左を遣って、引っ張ってリードしてくれた」という。そんな思い出のある演目でもある。 見どころ、聴きどころは「熊谷の出」「物語」「首実検」そして「段切」。 “熊谷次郎直実。花の盛りの敦盛を討って無常を悟りしか、さすがに猛(たけ)き武士も、ものの哀れを今ぞ知る思ひを胸に立ち帰り……” 文楽では「出の4歩(継ぎ足)」で熊谷の思いを表現する。「(義経への忠義から)自分の子どもを手にかけねばならなかった源氏の武将。それを子の母である妻には言えない。隠していますが、左手には数珠を持ち、思案に暮れながら帰る。その苦悩を見てもらいたい。出から、一子を討ったという気持ちを感じてもらえるように歩きます」と話す。
「常に妻の相模を気にしている」熊谷の目線を見て
「物語」では、「常に妻の相模を気にしている」熊谷の目線を見てほしいという。 “されば御顔をよく見奉れば……年はいざよふ我が子の年延(ば)い。定めてふた親ましまさん。その御嘆きは如何ばかりと、子を持つたる身の思ひのあまり……” 熊谷は敦盛を討った場面を物語りながら、敦盛の母・藤の局へではなく、妻・相模の方へと幾度も「引き目」を寄せる。以前は、藤の局に目を向け語っていたのを、初代吉田栄三が改め、床本を読み込み役の性根を深く理解しようと努めてきた初代玉男も踏襲した工夫だ。 「心に懸かるは母上の御事」。敦盛の最期の言葉として伝えるときも、目線は相模へと。敦盛を助けんがため討ったのは我が子。実は、子を失ってしまった妻を思っての物語り。 「裃(かみしも)人形で座って語る『物語』は、一番たいへんなところ。ここをうまく遣えたらと思います」 一枝(いっし)を伐らば一指を切るべし。義経の命を受け弁慶が綴った制札に込められた意味。すべてが明らかになるクライマックスの「首実検」。敦盛は院(後白河法皇)の御胤と知る熊谷、果たして正しかったのか。