「開発独裁が効率的」「脱炭素も進む」...中東の「民主国」クウェートで何が起こっているのか
選挙で批判勢力が勝つと、今度は議会を「4年間閉鎖」
クウェートでは昨年末、国家元首であるナウワーフ首長が亡くなり、ミシュアル皇太子が首長位を襲った。 新首長誕生でも政府と議会の対立による政治の停滞は収まらず、ミシュアル首長は今年2月に国民議会を解散、4月に選挙が行われた。しかし、案の定、政府批判勢力が選挙で過半数を占めてしまったため、事態はまったく好転せず、5月、ふたたび国民議会を解散しなければならなくなったのである。 ただし、ミシュアル首長は今回、さらなる強硬手段に出た。つまり、単に議会を解散しただけでなく、議会を閉鎖してしまったのだ。4年を超えない範囲で、憲法の立法権に関わる51条、組閣に関する56条、勅令の発布に関する71条、立法府に関する79条、国民議会解散に関する107条、憲法・法律の改正に関する174条、憲法停止に関する181条を停止したのである。 4年間の議会閉鎖中、議会の権限は首長および閣僚評議会(内閣)が肩代わりし、法律(カーヌーン)は布告(マルスーム)として発布されることになった。 実はクウェートが議会を閉鎖するのはこれがはじめてではない。1976年から1981年まで、そして1986年から1991年までにつぐ3回目となる。筆者がクウェートに住んでいたのはまさに2回目の議会閉鎖の時期であった。 前回は、とくに1989年以降、東欧の民主化革命や中国の天安門事件などの影響を受け、クウェート国内でも議会再開運動が勃発。あちこちでデモ隊と警官隊が衝突するなど、かなりの盛り上がりを見せた。当時のクウェート人といえば、成り金のイメージがあったので、こんなに政治のために暴れることもあるんだと、逆に見直した記憶がある。
異例の皇太子指名という、大きな出来事もあった
クウェートでは今回、もう一つ、大きな出来事があった。ミシュアル首長は6月1日、首長令を発布、サバーフ・ハーリド・ハマド・サバーフを皇太子に指名したのだ。 実はクウェート憲法では、皇太子の就任には、国民議会の賛成(忠誠の誓い〔ムバーヤア〕)が必要となっている。皇太子人事に非首長家メンバーが関与できるというのは、1920年代に起こったクウェート民主化運動で、クウェート人が獲得した重要な権利だったはずだ。 だが、国民議会および一部憲法が首長によって停止されているため、その権利が蔑ろにされたことになる。今後、サバーフ家と議会側のあいだで対立がさらに深まる可能性がある(なお、皇太子に関する憲法の規定は停止の対象になっていない)。 また、クウェート憲法では、首長位は代々ムバーラク・サバーフ(大ムバーラク)の子孫によって継承されると規定されているが、慣習的にムバーラクの息子のうち、ジャービルとサーレムの2人の子孫が皇太子・首長についていた(現ミシュアル首長、ナウワーフ前首長、サバーフ元首長はジャービル家、そのまえのサァドはサーレム家出身)。 他方、今回皇太子に指名されたサバーフは、大ムバーラクの子孫であるが、ジャービル家でもサーレム家でもなく、ハマド家の出身であり、これは、大ムバーラク以後のクウェートの歴史上はじめてである(下の家系図参照)。