炎が長くユラユラ揺れる「和ろうそく」職人は全国3か所だけ 伝え残したい地元・島原の文化《長崎》
(本多 俊一さん) 「製造業だけでは、ここは何をしているのかということを言われていた。何をしているのか(知っている)という人は少なかった」 8年前に定年退職した後、自宅だった場所を改装。 伝統文化を伝えていこうと、小学校教諭だった妻の美佐さんとともに 和ろうそくの販売や製作体験ができるようにしました。
( 妻・美佐さん(65)) 「木ろうに対する思いは誰よりも強い。やろうと思ったことは、何も相談せず突っ走る」 その本多さんが今 力を入れているのが、江戸時代から島原地域を支えてきたハゼの文化の発信です。
島原地域の伝統産業を7年前からは、地域の子どもたちにハゼの実の収穫を体験してもらうイベントを始めました。 後世に伝える取り組みです。
(本多 俊一さん) 「地域から理解されなかったら、残っていかないと思う。そういう面では、体験、販売して、修学旅行生や高齢者の方も集まって “和ろうそく作り” や “絵付け体験” をやって。地域にハゼの文化が広がったのではないか」
■噴火災害も乗りこえてきた「ハゼ文化」もっと理解してほしい
島原市の千本木地区。 かつては多くの人が暮らし、たくさんのハゼノキがありました。 (本多 俊一さん) 「ハゼがいっぱいここにあった。千本以上あるから、千本木という名前の由来と言われている」 しかし…。
1993年6月23日、雲仙普賢岳の噴火災害で千本木を大火砕流が襲いました。 集落は壊滅的な被害に…。 (本多 俊一さん) 「千本木の民家があった、ここに。人が住んでいた。ここであちらから火砕流が流れてしまって。下の方に(ハゼノキの)原木があった」 ハゼノキは焼失し、住民も集団移転。 “かつての姿を取り戻したい” と本田さんは5年ほど前から、ハゼノキの苗を植え続けています。
(本多 俊一さん) 「ここは道路が広いし、両側にハゼを植えれば 昔のようにハゼ並木になる。景色もいい。有明海が見えて、こちらに雲仙普賢岳。みんなでやろうとなれば、また元の千本木に戻るんじゃないか」 江戸時代に眉山が崩壊した「島原大変肥後迷惑」では、木ろうの販売で島原藩が復興したと伝えられてます。 それから、230年あまり。