日本シリーズ“ボール判定”に泣いた「ジョー・スタンカ」 野球選手になった驚きの理由(小林信也)
鉄道会社のストライキ
スタンカはオクラホマ州で生まれ、高校時代はバスケットのスター選手だった。大学でバスケットを続ける決意をしていたスタンカの前にドジャースのスカウトが現れた。 「メジャーで野球をやらないか。君には素質がある」 「野球は経験がありません」 「気が変わったら連絡してくれ、これが電話番号だ」 この出会いが自らの人生を開くとは夢にも思わなかった。18歳で結婚し、1年目に長男が生まれた。母子とも加療が必要で医療費がかかった。スタンカは大学を辞め鉄道会社に勤めた。運悪くストライキで無給が続いた。困ったスタンカが思い出したのがスカウトの名刺だった。 50年、ドジャースと契約。10年のマイナー生活を経て59年9月にホワイトソックスでメジャーに昇格。2試合に登板し救援で初勝利を記録した。南海入団はそのオフ。3Aクラスの投手来日は南海では初めてだったからエース杉浦忠と並ぶ活躍を期待した。スタンカは期待通り1年目から17勝。翌61年も15勝し南海をパ・リーグ優勝に導いた。
野村が「僕のミス」
スタンカの覚醒、そして栄光についても語る必要がある。 64年、スタンカは公式戦で26勝を挙げ、優勝に貢献した。日本シリーズの相手は阪神タイガース。初戦、村山実との投げ合いを2対0の完封で制したスタンカは、第3戦こそ痛打されたが、崖っぷちの第6戦はジーン・バッキーとのアメリカ人対決を完封で制した。これで3勝3敗。 ここからはジーン夫人と池井優の共著『熱投スタンカを憶えてますか』(中央公論社)から紹介しよう。 〈ジョーは第一戦、第六戦と二試合シャットアウトを演じ、あれだけ素晴しい仕事をやってのけたのだから、もう登板の機会はないものだと私は信じていた。したがって、藤江さん(注・通訳)が電話で第七戦も先発してくれるかと頼んできた時の驚きといったらない。しかも、ジョーが引き受けると返事をしたのに、またびっくりした。長年ジョーを見てきているが、完投した翌日の朝は、右腕をあげるのも辛いことをよく知っていたからだ。〉 スタンカは、あの一球について「あれは僕のミス。完全にストライクと思って腰を浮かせて球審の死角になったからだ」と語った野村捕手に感銘を受けた。そんな野村とバッテリーを組める幸せをかみしめた。そうした経験を重ね、スタンカは南海を愛し、意気に感じる気持ちをふくらませた。 再び村山と投げ合った第7戦。連投のスタンカは被安打5、奪三振8で阪神打線を零封した。3度の完封勝利で南海を5年ぶり2度目の日本一に導いたスタンカはMVPに輝いた。 小林信也(こばやしのぶや) スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。 「週刊新潮」2024年11月7日号 掲載
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