プロデューサー・富山省吾が語るゴジラと「平成・VSシリーズ」の世界
BS松竹東急では、「ゴジラ」シリーズ誕生70年を記念し、「平成・VSシリーズ」を11月4~9日の6夜連続で放送。これを記念し、特撮映画の金字塔である「ゴジラ」のさまざまな作品の中で1989年に公開された「ゴジラVSビオランテ」以降の12本の「ゴジラ」シリーズの企画・制作を手掛けたプロデューサーの富山省吾さんに密着! 富山さんには、制作に関わった当時の時代背景や作品への思い、特撮シーンを担当した川北紘一特撮監督とのエピソードなど、ここでしか聞けない話をたくさん伺いました。
――「ゴジラ」シリーズにプロデューサーとして活躍されましたが、制作に関わることになった時は、いかがでしたか。 「『ゴジラ』は、54年に制作され、900万人を超える日本人が見た映画です。『ゴジラ』は制作担当の田中友幸さん、本多猪四郎監督、特技監督の円谷英二さん、音楽を担当した伊福部昭さんの4人が生みの親。そしてそんな田中さんたちを結び付けて作品制作にゴーサインを出した森岩雄さん(当時の東宝制作本部長)こそがゴッドファーザー的存在です。僕が子どもの頃からスクリーン上の大文字で見てきた“田中友幸”のアシスタントとしていろいろ学びましたが、『ゴジラは怖いけどかわいい』という、この二律背反こそがゴジラの魅力、そして魔力だという教えが特に印象的でした。これを座右の銘として、『ゴジラVSデストロイア』(95年)まで6本の『平成・VSシリーズ』でプロデューサーを務めました」 ――「平成・VSシリーズ」は初期の「ゴジラ」をほうふつさせるという話をよく聞きます。 「おっしゃる通り『平成・VSシリーズ』は、田中さんらの4人の生みの親の遺伝子を受け継いで作られているので、初期作品の特徴が『平成・VSシリーズ』にも出ているのですね。例えば“ゴジラと核の因果性”でしょうか。前作から9年ぶりに制作された『ゴジラ』(84年)では、ゴジラが原子力発電所を襲い、放射能エネルギーを吸収したことによって、ゴジラと核との結び付きが確固たるものとして表現されました。その後『ゴジラVSデストロイア』(95年)でのメルトダウンによるゴジラの死へと導かれます。後はデジタルの黎明(れいめい)期に開花した、歌舞伎のようなけれん味たっぷりの光線や光粒子、金粉を駆使した川北特撮監督によるアナログとデジタルを融合させた視覚効果です。円谷特技監督が特撮を発展させた50年代の撮影所では、特撮映画はドラマを撮影する“本編班”と“特撮班”二つの組がそれぞれ撮影をして、1本の映画に仕上げる2班体制で作られていました。そのシステムを受け継いで、本シリーズも本編・特撮2班に分かれて撮影、仕上げをしていましたが、この後には一人の監督の下での複数ユニットによる制作システムに変わって行きます。このことも本シリーズがのちに向けて与えた変化、影響と言えるのでしょう」