なぜ、コーチングなのか?
学習してきたことを問い直す
あるメーカーの事業のトップを務めるAさんとのコーチングでのことです。 Aさんは、事業部長就任後ほどなくして、自分で考えずに指示を待つ事業部メンバーの姿に課題感を感じました。Aさん自身は、自ら考え、動いて成果を上げてきており、メンバーにもそのようになってほしいという思いを強くもっていました。それならば、とビジョンを掲げ、方針も明確にし、噛み砕いて説明を繰り返しましたが、状況は変わりません。Aさんの目には、事業部のメンバーはやる気がない、能力も足りないと映るようになっていきました。 コーチである私の目には、そのときのAさんが、自分が学習して身につけてきたものの見方で捉え、そこに当てはまらない外側の世界を否定し、変えようとしているように感じられました。そこでAさんに対して、自分を含めた全体を見てほしいといろいろな働きかけを続けました。つまり、Aさんが学習Ⅱとして身につけたものの見方と目の前の現実が結びつく、より大きなコンテキストで捉えられる視点を促そうとしたわけです。 「Aさん自身がいかんなく力を発揮できた時、仮にその環境が周到にデザインされていたとしたら、誰のどんな働きかけがあったと思いますか?」 「そもそも有能であるということは、個人に宿るのでしょうか?」 と問いかけたり、 「Aさんの語り口からは、常に人を優劣という基準でジャッジしていることが伝わってきます」 とフィードバックをしたりしました。 コーチングというと、鋭い質問やフィードバックでハッと気づきが起こるといったイメージがあるかもしれませんが、実際にはそんなことは多くありません。むしろ一回一回のコーチングセッションは、もやもやした思考や感情を伴って終わることが多いものです。 しかし、そのような関わりを数ヶ月続けたコーチングの終盤、Aさんの口から、 「ボトルネックは自分かもしれない」 という一言がこぼれ、その瞬間から変化が始まりました。 後日、Aさんとのコーチングを一緒に振り返った時にこう言われました。 「毎回のコーチングの中で、問われたり、フィードバックをもらったことは、その都度ほとんど消化できていませんでした。ただ、そのような中で、自分という存在から離れ、次第に客観的に見られるようになったと思います。そう考えると、一回で消化し解決に至らないことが、そうした視点を得ることにつながったのかもしれません」 継続的に関わるコーチという存在が、学習Ⅲにつながっていくと実感した瞬間でした。