球場でライオンを飼う 斬新な案も現実に…故マーティ・キーナートさんが福岡から根付かせたファンサービス
日本のプロスポーツの振興に貢献したマーティ・キーナートさんが78歳で亡くなった。 【実際の写真】球場にライオンが現れた(ファンブックから) 各紙の死亡記事の肩書を見ると、元プロ野球・東北楽天ゴールデンイーグルスのゼネラルマネジャーやBリーグ・仙台89ERSのシニアゼネラルマネージャーがほとんどだが、福岡のオールドファンにとっては太平洋クラブライオンズ(現埼玉西武)の営業開発促進室室長としてアイデアいっぱいのファンサービスに努めた姿が思い浮かぶ。 異色の球団職員だった。ライオンズが西鉄から太平洋クラブ(福岡野球)に変わって2年目の1974年、福岡にやって来た。前職はロッテオリオンズが米国に持っていたマイナー球団、ローダイオリオンズのゼネラルマネジャー。ロッテのオーナーだった中村長芳氏が福岡野球のオーナーに転じたのが契機だったのだろう。 米国のスポーツビジネスを熟知するキーナートさんは、斬新なファンサービスを企画し実現した。女性をターゲットにしたレディースナイターの開催、障害者のための特別室設置、ファンによる始球式の実施、グッズ販売店の開設。今ではどの球団も取り入れているサービスだが、先鞭をつけたのはキーナートさんだった。野球賭博がからんだ「黒い霧」で離れていったライオンズファンを呼び戻したいとの一心だったのだろう。 間接的ではあるが、キーナートさんには大恩がある。キーナートさんが携わっていた小中学生対象の「友の会」に入会していた。帽子がもらえ、平和台球場の外野席が無料になる特典にひかれた。おかげで野球観戦はハレの日のイベントではなく、日常となった。 小学校のクラスの友の会仲間と自転車を連ねて球場へ行き、声援を送った。東尾、加藤初、竹之内、基、山田、張本、野村、土井―。野球の楽しさやプロ選手の素晴らしさを外野席で学んだ。友の会がなければ、野球への関心は現在まで続いていなかったかもしれない。 ファンサービスの中で一番の〝ヒット〟は、本物のライオンを平和台球場で飼ったことだと思う。動物をマスコットにする米国のカレッジスポーツをヒントに、生後4カ月のメスのライオンを購入したのだ。 2年前、その時の思い出を聞いた。飼育員が見つかるまで自分のマンションで飼ったこと、革靴を爪でグサッとやられた時、爪痕は靴底に達していたこと、試合前に鎖をつけてグラウンドを闊歩したがライバルのロッテ選手にはよく吠えかかったこと。今となっては笑い話だが、「昭和の野球」らしいエピソードの数々を鮮明に覚えていた。 昨年10月、米大リーグの元本塁打王、フランク・ハワード氏が亡くなった時も取材した。74年、鳴り物入りでライオンズに入団したときの良き相談相手だった。ハワード氏は膝を痛め1試合だけの出場に終わったが、「欠場を勧めたが『ファンが待っている』と出場を強く訴えた」「打撃練習に向かうときも、バットがつえ代わり。それでも柵越えを連発した」と貴重な証言を並べた。 その取材では加藤初、東田正義、高橋二三男、永射保ら鬼籍に入ったかつての〝戦友〟たちのことも話題となった。言葉の端々に寂しさをにじませて思い出を語っていたが、わずか1年後にキーナートさんを追悼することになろうとは夢にも思わなかった。 ライオンズが福岡を離れて44年。ライオンズの記憶は年々薄れ、当時のことを語れる人も少なくなった。そんな中で、球団の運営を熟知していたキーナートさんを失うことは悲しくて悔しい。もっと取材して、もっと話を聞かせてほしかったとの願いは、もうかなわない。(塩田芳久)
西日本新聞社