上皇と美智子さまの「結婚」に抵抗していた「反対勢力」が、力を失っていった理由
報道陣が殺到
五日、明仁皇太子は東宮仮御所で秩父、高松、三笠の各宮妃に美智子を紹介した。翌六日、皇太子と美智子は婚約内定後、初めてテニスをした。二人がテニスをするのは八月の軽井沢以来だった。東京ローンテニスクラブには二人の写真を撮ろうと報道各社が殺到した。 八日に築地の料亭で小泉(信三)の招きによる宴会があった。正田富美子と入江、黒木、戸田ら侍従、保科女官長と松平信子らが参加した。小泉は反美智子派との融和を策したとみられるが、松平らの内心はどうだったか。このような会合や秩父宮妃らと美智子を会わせたことなど、「反対派」との融和策について、入江は田島道治宛ての書簡で「このやうにして回を重ね行くにつれ何とか相成るべきも、又同時に逆に何とか相成にくとも発生すべく、八方に気を配らねばならず、当分側近に奉仕するものはもとより全般的に骨の折れることに御座候」と書いている。 そしてこのあと、入江の日記には不穏な記述が連続して見られる。 「美智子さんの教育に呉竹寮を使ふことを昨日お上はいゝとおつしやつたのに皇后さまはいけないとおつしやつた由。まだモヤモヤがあるらしい」(十二月九日) 「十六日に美智子さんも交へてお文庫でお催しになつたらと女官長を通じて申出たが早過ぎるとのことで駄目。何が早過ぎるのか全然分らない。無意味な不愉快な底流を感じる」(十二月十一日) 「なほ松平信子、宮崎白蓮が中心となつて今度の御婚儀反対を叫び愛国団体を動かしたりした由。併(しか)し大体取静めたとのこと」(十二月二十二日) 宮崎白蓮とは大正天皇の生母・柳原愛子(やなぎわらなるこ)の姪で歌人でもある柳原白蓮のことで、このとき七十三歳。松平とともに反美智子勢力の中心となる。白蓮は孫文を支援した宮崎滔天の長男・龍介と駆け落ち事件を起こすなど、大正期を自由奔放に生きた女性だが、このときは守旧派として立ちふさがった。 松平、白蓮らが動かしたという愛国(右翼)団体は十二月六日に後楽園ホテルで集会を開いていた。この場に出席した白蓮は「皇太子様ともあろうものが、高が粉屋の娘にほれて騒ぐとは外国に聞えても恥しい。皇后様は皇后様と崇められる様なお方でなければ私共は皇后様とは載(ママ)けない」と発言したという。 しかし、反対派が大勢力となることはなかった。宮中でも入江ら侍従は美智子に好意的であったし、民間出身の皇太子妃に難色を示していた元首相の吉田茂は、田島道治に対して美智子を絶賛するようになっていた。それでも田島はこのバックラッシュ(反動)の激しさを見て、妹の清宮の結婚相手は華族が望ましいと裕仁天皇に進言している。 十二月九日、明仁皇太子と美智子の新居となる予定の東宮御所のくわ入れ式が建設予定地の大宮御所跡で行われた。新御所は東京工業大学の谷口吉郎教授の設計で、鉄筋コンクリート二階建て、建物の総面積は三千八百六十四平方メートル。表公室、奥私室、事務室、車庫の四棟に分かれており、屋根は銅板で大きな窓や長いひさしをつけ、梁や柱を際立たせるなど、現代建築のなかに日本調を生かした建物にした。皇太子の要望で育児室も設けられた。総工費は二億二千三百万円で、翌年末に工事が完成する予定だった。 この東宮御所建設工事の入札では間組が一万円で落札して物議をかもした。奉祝のつもりだったが、あまりに非常識という批判が強まり、建設省が同社に辞退を勧告。一万円の落札は取り消され、間組を含む建設会社七社の共同工事となる一幕があった。 美智子は十二月十八日、母校の聖心女子学院と聖心女子大学にあいさつ回りに出かけた。在校生が拍手で出迎え、口々に「おめでとう」と祝福した。美智子はブリット学長を訪ね、結婚のあいさつをした。
井上 亮(ジャーナリスト)