スガモプリズンで叶わなかった面会「ストップ!」とMPに阻まれ カービン銃をつきつけられた男性~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#73
1950年4月7日、28歳の藤中松雄と一緒にスガモプリズンで死刑が執行された下士官、成迫忠邦。26歳で命を奪われた成迫を直接知っている男性がいた。同郷の武田剛(こう)さん。武田さんは、当時500戸の全村民の助命嘆願書を担いで、スガモプリズンまで届けに行ったという。しかし、MP(米軍の憲兵)に銃をつきつけられ、塀の中にいる成迫に会うことは出来なかった。そして、間もなく村に届いた知らせ。激震が走ったー。 【写真で見る】死刑を宣告される成迫忠邦
日大の学生だった成迫忠邦
成迫忠邦のふるさと、大分県佐伯市木立。現在も木立にお住まいの武田剛(こう)さんは、94歳。(2024年6月取材時)サイパンで戦死した兄と親しかった成迫のことはよく憶えている。日本大学の学生になった成迫は、帰郷した時、武田さんの頭に角帽をかぶせてくれた。こどもだった武田さんから見ても、成迫は綺麗な顔立ちをしていたという。 そんな成迫がBC級戦犯として囚われ、一審で死刑の判決が出たあと、さらに「再審でも死刑」という過酷な知らせが届いた。それを成迫家へ届ける役目だった武田さんの父(当時の村長)は、成迫家に向かう道の途中で心臓の病で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。 その10ヶ月後、武田さんは村の青年団の活動発表で上京する際に、成迫の減刑を求める嘆願書を持っていくことになった。 〈写真:武田剛(こう)さん〉
村中の嘆願書を担いでスガモプリズンへ
(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛)「佐伯史談210号」(2009年7月) 青年団員は手分けしてまたたく間に全村民の署名を集め、私は団員からのお餞別で汽車の切符を買い、リュックサックに署名簿と上京中食べる米を六升ばかり入れて「よし、この署名簿で助命をかちとってみせる」と、はやる気持ちで汽車に乗り込んだ。助命嘆願などどこでどうするのかさっぱり知らないまま、行けばどうかなるという旅立ちだった。 いよいよ巣鴨の忠邦さんに面会に行った。巣鴨の駅に降りると一面の焼け野原に高さ7~8メートルはあろうかというコンクリートの高い壁が延々と連なっていた。「あの中に忠邦さんが居る、やっと会える」と、高鳴る気持ちでその壁にたどりつき、正門をめざした。門には白いヘルメットにMPと書いた米兵が二名、カービン銃を横に持って立っていた。門の前に小さな事務所があり、米兵と日本人も居た。 しかし、面会したい旨を告げると、「肉親しか会えない」と言われた。署名簿も見せたが、係は首をふるばかりで、「気の毒だが帰りなさい」と言う。居ても立っても居られず、武田さんは門に近づき、入ろうとした。 〈写真:死刑判決を受ける成迫忠邦 1948年3月16日(米国立公文書館所蔵)〉