「一番笑ったのはドライヘッドスパの話」レンタルなんもしない人が、ハライチ岩井のエッセイを語る(レビュー)
『僕の人生には事件が起きない』は岩井さんファンの妻が持っていましたが、僕は読んでませんでした。会社を辞めてふらふらと生き方を模索していた時期、ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』が腑に落ちて、もう人生に本はいらない、と陶酔し、読む習慣はほぼなくなっていたんです。エッセイって役に立ちそうなイメージがないから特に避けていたのですが、『この平坦な道を僕はまっすぐ歩けない』は、久しぶりでも読みやすかったです。 書評を担うにあたり、ひとまず全編を貫く強いコンセプト的なものを探ろうとしたところ、うまくいきませんでした。酷い人生を前向きに描こうとか、俗物たちの中にも確かに存在する愛を掘り起こそうとか、そういうわかりやすく一貫したものはなく、「日常で気になったこと」といったふわっとした縛りのもと一篇一篇ちがったテイストで書かれているように感じ、感想を大掴みにするのは難しかったです。もしや「岩井さんってこうだよね」と大掴みにされるのを嫌ってフェイントをかけているのでは、という印象すら持ちました。だとしたら狙いは見事に達成されています。途中で何度もまかれたような気持ちになりました。ともかく、全編面白く読めたのは、まず伝えたいです。
一番笑ったのはドライヘッドスパの話。出来事の面白さと岩井さんの表現の面白さ、どちらも際立っている。特に三点リーダ(……)を連発するのがめっちゃ好きで。店員が「……」で話し続ける雰囲気が、なんで可笑しいのかわからないけれど、とても好みでした。「……」の面白さはプラネタリウムの話にもあって、プラネタリウムを観たあとのふわふわした気分を引きずりながら辛辣なことを言っているところとか、細かい部分で笑いにこだわって書かれていることも、すごく伝わってきました。 僕は学生の頃、趣味と言えるくらいお笑いに触れていました。芸人さんには憧れたけど自分には適性がないと感じ、その道に進むのは早々とあきらめ、目だけ肥えました。そういう人間にありがちな、笑いへのやたら厳しい目をもってしても、このエッセイにはちゃんと笑わせられました。ぱっと見ありふれた文体なのもあり、「まあ、岩井さんのファン向けに、お笑いとは別サイドの岩井勇気も見せていこう的な?」と、なめてかかったのもあったかもしれません。でも、油断しちゃいけなかった。まあ、笑ったらいいんですけど。 ドライヘッドスパの話は妻にも読んでもらいましたが、やっぱり笑っていて、そのあと、「あなたのエッセイを読んでいるみたい」と言われました。実は、岩井さんにとっては全然嬉しくないことと承知で言いますが、似ているのでは、と自分でも思うところがあって。身内以外の他人をかなりドライな筆致で描写するところとか。熱を入れて書き込むところとあっさり流すところのギャップとか。 それで、ちょっと唐突なんですが、僕も何か書きたいなと強烈に感じました。実はゲラをいただいたとき、岩井さんのエッセイが目の前にあるのが、なんだかすごく嬉しかったんです。単なるミーハー的な嬉しさもありつつ、それとは別の高揚感もあって。これまで岩井さんのメディア露出をちょいちょい見聞きしてきたことで、本の中身を読むまでもなくなんとなく共鳴する予感があったからだと思うのですが、岩井さんのエッセイの存在感から、未来かパラレルワールドの僕が書いたエッセイを連想して興奮しちゃったんです。僕もこういうの書いてそうじゃん、と。おおげさに言えば、希望を感じたんだと思います。 ほかの人の文章で、こんなふうに希望を感じたことはありません。どれだけ面白くても、あくまでその人の特殊な経験でしかない気がして。岩井さんのエッセイは、タイトルからも察せられるように、出来事自体はわりと誰にでも起こりそうなことだらけです。だから、自分の中での再現性を感じたのかもしれません。僕に限らず、センセーショナルではない日常を生きる多くの人にとって、ある種の手本になり得るんじゃないですかね。そうか、歯医者のあの感じって、こうやって面白がればいいのか、みたいな。 とはいえ、エッセイ風なことを思うこととエッセイを書くこととの間には大きな隔たりがあります。それだけ「書く」って偉大なことです。ありふれた出来事は、そのままリプレイしてもつまらないけれど、適切な書き手が適切な解像度で切り抜けば読み物として輝く。たぶん岩井さんの人生に事件が起きないのは、岩井さんに事件は必要ないからじゃないか、良い書き手の人生に事件は要らないんだ、とつくづく思う。書くことのひとつの達成の中に、大事件のない平穏な日常があるのは本当に希望です。 余談ですが、三島という土地が二回も出てくるのが個人的に嬉しかったです。会社員の頃に三年ほど住んでいたことがあったので。一回目は美化されていて大丈夫かなと思いましたが、二回目で落とされていて安心しました(笑)。 [レビュアー]レンタルなんもしない人 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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