天皇陛下退位後の称号で候補として話題 学校で学んだ「上皇」とは
上皇が朝廷の没落を招いた?
その後、平治の乱で源氏を破った平清盛が異例の出世を遂げ、1167年には太政大臣に昇りつめました。用心棒が古参の役員を押しのけ、“専務取締役”になったようなものです。清盛は白河天皇のご落胤(隠し子)という説もありますが、いずれにせよ、武士が政治の実権を握ったのでした。 しかし、おごれる者は久しからず。1180年、後白河法皇らは横暴を極める清盛を追放しよう(いわゆる以仁王による平氏討伐の令旨)と、源頼朝らに挙兵を呼びかけました。源平合戦のはじまりです。これに勝った頼朝は鎌倉に幕府を開き、1192年に征夷大将軍に任命されました。 将軍は朝廷を重んじるふりをしながら、鎌倉で独自の政治を推し進めました。 しだいに朝廷の“経営”を浸食していったのです。これに憤怒したのが、院政を再開した後鳥羽上皇です。1221年、後鳥羽上皇は全国の武士に幕府打倒を命じました。しかし、頼朝の妻・北条政子の説得で武士(御家人)が結束し、上皇軍を討ち破ったのです。これが承久の乱です。 敗れた後鳥羽上皇は、離島の隠岐に左遷(配流)されます。こうして朝廷の“経営”は、武士に乗っ取られてしまったのでした。その後、院政を含む朝廷のしくみは保持されましたが、形式的なものになり、上皇も江戸時代後期の光格天皇(天皇の在位期間:1780ー1817年、明治天皇の曾祖父)が最後となりました。 教材編集者・大迫秀樹