漫才に対する分析が鋭すぎ、ノンスタ石田の「漫才か、漫才じゃないか」の答え やすきよ大師匠の掛け合いにみる「漫才の原点」
■漫才的なストレートな表現が不自然に そこでは本来、「コント的なツッコミ」しかできません。設定を共有したうえでのツッコミなので、あまり激しくできない。ボケを仕掛けられて被害者になってしまったイライラを、漫才的にストレートに表現すると不自然になってしまうんです。 ツッコミ側が場面を共有していることで被害者感が薄れているので、「今、初めて言われた」「ふいに理不尽なことをされた」みたいな顔をして突っ込んでも、うそっぽくなってしまうんですよね。そんな反応にならんやろ、と。
「共闘」の割合が大きくなればなるほど、「織り込み済み」ということになり、ツッコミがボケの被害者としてイラつく理由がなくなってしまう。コント漫才では、基本的に、いかにも漫才的な強いツッコミがしづらいんです。 にもかかわらず、なぜサンドウィッチマンのネタが漫才として爆笑をとれるのか。意外に思われるかもしれませんが、そこで大きなファクターとなっているのは、伊達さんの風貌やと僕は見ています。 伊達さんがちょっとコワモテやからこそ、設定上の役柄として言う「ふざけんなよ!」みたいなシンプルなツッコミを、不自然でなく、漫才らしく強めに響かせることができる。だから見ているほうも、違和感なく素直に笑えるんちゃうかなと思います。
石田 明 :お笑いコンビ「NON STYLE」のボケ、ネタ作り担当