終戦の日に徹底証拠隠滅 いまだ謎多い旧陸軍登戸研究所偽札作戦の闇(上)
なぜ偽札を造ろうとしたのか
そもそも、どうして陸軍は偽札を製造しようと考えたのでしょうか? 明治大学教授で同館の山田朗館長は、こう話します。 「当時の日本は中国と戦争をしても、すぐに勝利すると考えていました。ところが、中国大陸における覇権を脅かされることを恐れたイギリスやアメリカが、日本の勢力拡大を恐れて中国を後方支援していたのです。それらの支援もあって日本は簡単に勝つことができず、日中戦争は長期化してしまいました。戦争が長期化すると、兵力や兵糧、弾薬などを消耗してしまいます。こうした事態に直面した日本は戦力などを消耗させずに中国を弱体させる作戦として偽札を製造する、経済謀略に舵を切ったのです」。 清朝時代の中国大陸では、日本の江戸時代の藩札のように各地の有力者がそれぞれ独自の通貨を発行していました。辛亥革命で中華民国が樹立すると、中国政府は統一紙幣「法幣」の発行を始めます。日本の偽札製造は、そうした幣制の移行という間隙をつく作戦だったのです。 ところが、日本政府の偽札製造は思うように進みません。中国は法幣を発行するためにイギリスから技術者を呼んでいました。イギリス人技術者の指導もあって、法幣には高度な技術力を盛り込まれていたのです。 登戸研究所で製造された偽法幣は見た目こそ本物に近いクオリティでしたが、手触りがまったく異なっていました。登戸研究所では完璧な偽法幣を製造するため、日夜、研究がつづけられました。
終戦日に徹底的に証拠隠滅
また、登戸研究所で製造されていた偽法幣は額面の小さなものばかりでした。一方、中国は高額紙幣を大量に刷っていたこともあり、いくら日本が偽法幣を大量に刷っても中国で経済的な大混乱は起こらなかったのです。 登戸研究所も少しずつ偽札製造の技術力を上げていきます。1941(昭和16)年には年間で約3000万元しか製造していなかった偽法幣を、1945(同20)年には約40億元まで製造できるようになったのです。 こうなると、日本が当初の目的としていたインフレが起きて中国は経済的に混乱を起こすと思われました。しかし ── 「1941年には日米間でも開戦し、日を追うごとに戦火は拡大していました。中国大陸でも偽札とは関係なく物価が上昇していたのです。急激なインフレが起きたため、逆に日本で製造していた偽札でインフレを起こすという目的が薄らいでしまいました。さらに偽札を使って現地で物資を調達していた日本軍は、インフレで苦しむようになりました」(同)。 中国経済の混乱を起こすことを目的とした登戸研究所の偽札製造は不発に終わりましたが、登戸研究所が製造していた偽札は中国の法幣だけではありませんでした。 当時のインドはイギリスの植民地で、独立の機運が高まっていました。インドが独立に動き出せば、宗主国のイギリスはインドで手一杯になって中国を手助けできなくなります。そうなれば中国大陸の覇権を掌握できると考えた日本は、インドのルピー紙幣の偽札製造も試みています。 さらにアメリカのドル紙幣の偽造にも着手しており、マカオで石油を購入する際に偽ドル紙幣が使われていたという逸話もあります。 偽札を製造するという、戦時でもタブーとされる作戦に手を染めていた登戸研究所は、戦後に進駐軍から罪を問われる可能性が大いにありました。そのため、登戸研究所員は終戦日の8月15日に関係書類や実験器具を徹底的に焼却処分し、証拠隠滅を図っています。 「戦争という非常事態においても、国家ぐるみで偽札をつくることは国際社会の信用を毀損する行為とされ、知られてはいけない秘密でした。登戸研究所内でも偽札を製造していた一画は人の出入りを厳重にし、秘密を漏れないように細心の注意を払っていたと言います。偽札を製造しているということを知っているのも一部の人たちだけで、軍の上層部や憲兵にも偽札製造は知らされていませんでした。また、同じ登戸研究所内で働いている他部署の所員にも口外してはいけない秘密だったようです」(同)。 関係書類などが焼却処分されたこともあって、偽札製造は戦後も長らく封印されていました。 元所員や歴史学者によって登戸研究所の全容解明や歴史的検証が進められていますが、今もなお偽札製造については多くの謎が残されたままになっています。 小川裕夫=フリーランスライター