一生懸命でマジメな政治家ほど、なぜか報われない…そのことを痛感させてくれる「自民党議員の名前」
「パペット(操り人形)内閣」「いっしょうけんめいカイフくん」と揶揄されながらも、与えられた「総理大臣」の役割を懸命に果たそうと頑張った、宰相・海部俊樹。だが、この「善人宰相」はその後の世界に災厄を招いた中国への円借款再開を行い、今に至る中国の怪物化に手を貸すことになった……。 【写真】安倍晋三が恐れ、小池百合子は泣きついた「永田町最後のフィクサー」 永田町取材歴35年、多くの首相の番記者も務めた産経新聞上席論説委員・乾正人は、いまこそ「悪党政治家」が重要だと語る。「悪人」をキーワードに政治を語る『政治家は悪党くらいでちょうどいい!』(ワニブックス刊)より一部を抜粋編集してお送りします。
弁論術に秀でても演説の中身は空っぽ
海部俊樹という人物は、何事にも真面目に取り組み、裏表がなかった。 私は平成元(1989)年6月から産経新聞政治部に配属され、官邸記者クラブで2年間、首相番記者を務め、彼を間近に見てきたからそう断言できる。 海部は会社勤めの経験はなく、学生時代から代議士秘書を務め、政治家になった。政治資金をめぐるスキャンダルにはほとんど無縁で、当時の永田町では極めてまれな「クリーンな政治家」だった。 学生時代、中央、早稲田の両大学の弁論部(早稲田は雄弁部)に所属し、「海部の前に海部なし、海部のあとに海部なし」と称賛されたほど、弁論術に秀でていた。 ただし、残念ながら弁論術には秀でていても演説の中身には独創的な発想はなかったという。
竹下派の「パペット(操り人形)内閣」
三木派の代議士、河野金昇(きんしょう)の地盤を引き継いだ海部は、当然のごとく三木派に所属した。三木武夫政権では官房副長官として重用されたが、派閥が河本敏夫に禅譲されると、派内では坂本三十次(みそじ)ら河本側近議員が台頭し、微妙な立ち位置となった。 そんな海部に目を付けたのが、早稲田雄弁会の先輩、竹下登だった。竹下は何くれとなく海部の面倒を見、竹下派旗揚げ後は、「現住所・河本派、本籍・竹下派」と仲間の代議士や記者たちから揶揄されたほど。 だからこそ、リクルート事件などで国民の政治不信が頂点に達し、竹下内閣に続いて宇野宗佑内閣が倒れたあと、竹下が「隠し玉」として海部を説得して次期総裁に担いだのもむべなるかな。 これに対し海部が所属していた河本派は、反発し、領袖の河本敏夫は自民党総裁選に出馬の構えをみせたが、当時は竹下派の全盛時代。「経世会にあらずんば代議士にあらず」の流れに抗することはできず、しぶしぶ「海部首相」を容認した。 そうしてできた海部俊樹内閣が、竹下派の「パペット(操り人形)内閣」だったのは言うまでもない。 幹事長に竹下派のホープだった小沢一郎が起用された自民党の党三役のみならず、第一次海部内閣の主要閣僚人事は、「竹下と金丸信、それに小沢の三人で決めた」と噂されたほど。 重要な政策決定の前には、必ず竹下、金丸両人の了承を得る必要があった。 首相時代の海部は朝早く起き、NHKニュースを横目に見ながら全国紙五紙すべてに目を通していたという。 自分があずかり知らぬところで、つまり竹下―金丸―小沢ラインが勝手に政策を決め、メディアにリークしているのが心配だったのと、政府関係の案件で竹下、金丸に伝えていないことが紙面に載っていると、朝一番で両人に電話で説明しなければならなかったからだ。 当然、幹事長の小沢の発言力が増し、首相(自民党総裁)の海部が、部下であるはずの小沢に気を遣う場面に何度も遭遇した。 このころ番記者の間では、小沢が「担ぐ神輿(みこし)は軽くてパーがいい」と酒席で語ったという噂がまことしやかに語られていた。