一生懸命でマジメな政治家ほど、なぜか報われない…そのことを痛感させてくれる「自民党議員の名前」
「いっしょうけんめいカイフくん」
だが、彼は与えられた「総理大臣」の役割を懸命に果たそうとしていた。 週末も「視察」と称して地方や都内に出かけるのは当たり前だった。たまの休みが、毎週のようにつぶれた番記者は「サンデー・トシキ」(このころ、プロ野球ロッテの投手、村田兆次が日曜ごとに登板し、「サンデー兆次」と呼ばれていた)と呪詛していた。 ちなみに「働き方改革」なんて洒落た言葉がなかった当時、若い政治部記者の平日は、早朝から深夜までセブンイレブン(午前7時から午後11時まで)どころか、シックスワン(午前6時から翌日午前1時まで)の「19時間労働」が当たり前だった。 そんな海部の一生懸命さが、「いっしょうけんめいカイフくん」(昭和の終わりに『いっしょうけんめいハジメくん』という人気サラリーマン漫画があった)と揶揄されながらも徐々に国民の共感を呼び、平成2(1990)年2月の総選挙で自民党は勝利を収めた。 海部の働きによって自民党は蘇生したのである。
中国への円借款再開
そんな何事にも一生懸命な彼が、真剣に取り組んだ外交課題が、中国への円借款再開だった。しかもこれが「成功」してしまったことが、その後の日本と世界に厄災をもたらすことになるのだが。 海部政権が誕生する前の平成元(1989)年6月4日、北京で民主化を求めた学生たちを武力で鎮圧、多数の死傷者が出た天安門事件が起きた。 欧米各国は、即座に対中経済制裁に踏み切り、日本も足並みを揃えて第三次円借款の供与を凍結した。 第三次円借款は、竹下が首相時代に訪中した際に約束したもので、中国の近代化支援のため水力発電所や鉄道、港湾整備のため1990年から6年間で総額8100億円を供与することを予定していた。 中国側は、先進各国の制裁を解除させるためには、包囲網の中で日本が最も脆弱だと分析。特に第三次円借款は喉から手が出るほどほしく、円借款凍結解除へ向けてまず、日本の財界に攻勢をかけた。 天安門事件が起きてから5か月後の1989年11月。 当時の中国首相、李鵬(りほう)は、経団連会長、斎藤英四郎が最高顧問を務めた日中経済協会訪中団と会見し、円約款再開へ向け「公表せず、作業を少しずつ始めたらどうか。公表すれば欧米の反響が必ず出るだろう」と述べ、秘密裏に日本側が調査団を送るよう求めたのだ。 これに対し訪中団は「進めてほしい」と易々と中国側の提案に乗った。 斎藤らは帰国後、外相の中山太郎に「いま動けば将来十倍、百倍得るものがあろう」と進言したのである。 日本が率先して中国に助け舟を出せば、日本企業が将来、十倍、百倍の利益が得られるという皮算用をはじいたのだろうが、なんと浅はかだったことか。 新日鉄社長として上海宝山鋼鉄誕生を全面支援した斎藤は、当時は豪放磊落な「大物財界総理」と持て囃されたが、しょせんは未来が見えないただのサラリーマン社長だった。 新日鉄の後継、日本製鉄は2024年、上海宝山鋼鉄と縁を切った。日本最大の「親中企業」は、ようやく中国を全面支援した愚を悟ったのである。
乾 正人(政治コラムニスト・産経新聞上席論説委員)