イギリスで壮大な「国民IDカード」構想がまさかの頓挫! 政府はなぜ根拠に乏しい計画を強引に進めようとするのか
国民IDカードはあらゆる問題を解決する?
1989年に、ある議員が提出した議員法案での主張は、「国民IDカードを再導入することで、犯罪、薬物、学校のずる休み、未成年者の飲酒、不法入国、テロ行為の問題に対処できるようになる。そしてもちろん、暴力的なサッカーファンたちにも」というものだった。 1990年代初め、国民IDカード導入の問題についての政府内での意見は分かれていた。ジョン・メージャー首相をはじめ、安全保障上の利点から導入に傾いていた派もあれば、国民IDカード導入は不要な欧州統合をますます促進することになるとみなす派もあった。 そして1996年になるころには、内務省特別委員会なども国民IDカード導入を熱心に支持するようになっていた。 同委員会では、議員法案で挙げられた利点に加えて、「公務員を騙った偽電話、詐欺ではない軽犯罪、未成年者に対する酒類や煙草の販売への対処や、選挙の事務手続き、旅行の手続きの円滑化にも有効である」と判断された。 ところが、1997年に首相になったトニー・ブレアが国民IDカード導入に賛同しなかったため、構想は途絶えた。 今回の賛成派の意見をまとめると、国民IDカードとは、「多くの細菌に有効な『広域抗生物質』のようなもの」だそうだ。彼らにとって国民IDカードの導入は、社会のほぼすべての悪(少なくとも内務省が対処すべき範囲内のもの)に対する万能の解決策に見えたのだ。 2006年、政府は「国民ID登録簿」の作成に取りかかるための法を成立させた(注:このときの首相もトニー・ブレアだった)。これは、対象者全員に個別の番号が与えられ、希望者にはカードも発行されるというものだった。 だが、この導入計画は、結局のところたいして進まず、2010年に同法が廃止された時点で発行されていたカードは、わずか1万5000枚程度だった。
費用だけがどんどん膨らんでいく
英国のあらゆる問題の解決策と期待されていたものが、とりたてて成果を出さないままごみ箱行きになってしまったのはなぜなのだろうか。その責任の一端は、「バッドデータ」(注:統計学的に理想的なデータに紛れ込んで分析を邪魔する粗悪なデータ)にあった。 成りすまし犯罪による納税者の負担が、年間13億ポンド(約2786億円)にものぼっていたことは推計されていたが、うたわれていたほかの利点に関することについては、どれも一度もきちんと数値化されていなかった。 それらに対して政府はインパクト評価(注:政策によって予想されるプラス面とマイナス面を数量的に比較検討すること)を行わなかったため、たとえば「不法就労者や国民保健サービスでの無料医療を目的とする入国者を減らせたことによって、将来的にいくら損失が防げるか」について、世間が状況を把握したり批判したりできるような具体的な情報は何もなかったのだ。 また、国民IDカードの導入計画の支持者たちは、住民全員が一つずつ番号をもつことで実現する「完全な住民登録簿」には、データを国民保健サービスや国民保険といったほかの記録システムに紐づけられるという、きわめて大きな利点があることを強く訴えなかった。 英国ではいまなお、正確な出入国者数も把握できていなければ、すべての大都市に加えて一部の市の人口さえも、まったく摑めていない。 「より効率的なシステムがあれば、どんなことがどれくらい軽減できるか」について、なぜ数字を出せなかったのだろうか。 公務員たちは、日々の管理業務においてさえも、統合されていない各システムから大量のデータを、きわめて多くの時間をかけて苦労しながら拾い出さなければならない。「その作業が不要になることで、労働時間を毎年どれほど削減できるか」について、なぜ数字を出せなかったのだろうか。 一方、実際に議論の対象になりえたほぼ唯一の具体的な数字は、国民IDカード制度自体を立ち上げるための費用だった。当初の見積もりでは、13億ポンド(約2443億円)から31億ポンド(約5826億円)のあいだに収まるはずだった。 ところが2007年には、10年にわたる制度立ち上げ費用の概算は57億5000万ポンド(約1兆3548億円)になっていた。すでに評判が下がっていた国民IDカード導入計画に、年間およそ6億ポンド(約1414億円)もの税金が使われていることが判明すると、政府は大打撃を受けた。