〈箱根駅伝〉花田監督が武井隆次、櫛部静二と築いた「早大三羽烏」時代…明らかに実力の劣る花田に当時の瀬古利彦監督がかけたやさしい言葉
歩くスピードから、シャレにならないほど速かった元五輪代表のレジェンド
早稲田に入学する前の2月、私は沖縄県の西表島にいた。同島で行われるエスビー食品の合宿に呼んでもらったのだ。 西表島には、まず那覇に行き、さらに飛行機を乗り継いで石垣島で一泊して、翌朝に船で渡った。約50分ほどだが、海が荒れていたのか意外と船が揺れたので、私は船酔いして、やっとの思いで西表島に到着したことを覚えている。 到着した日は、午後に軽くジョグをしただけで終わった。 いよいよ明日からは憧れの瀬古さんの指導が受けられる─そう期待していた私が、瀬古さんから最初に教わったのは、なんと〝歩く”ことだった。 「そんなに練習量をやったことがないから、朝練習は歩こうか。歩くことは基本だよ」 瀬古さんはそう言うと、泊まっていた旅館の庭にあった拳より少し大きい石を2つ拾って、私に渡した。「この石を握って歩け」ということだった。 日本の最南端にある八重山諸島に位置する西表島の日の出は、この時期だと7時半前と遅い。 朝練習の時間は少し遅めで6時30分集合だったが、あたりはまだ暗かった。 当時の西表島には信号機が1つしかなく、それも交通ルールを学ぶために小学校の前に設置されていると瀬古さんから聞いた。車も数えるほどしか走っていなかったからだ(だから合宿には最適とも言っていた)。 そんな状況なので当然、街灯もほぼなかった。真っ暗いなか、どこで折り返すかも知らされないまま、私は瀬古さんと2人、歩き始めた。 瀬古さんの歩くスピードは、シャレにならないほど速かった。 歩くというよりはもはや競歩に近いスピードである。私も決して遅いほうではなかったが、手に大きな石を持ち、走りに近い腕振りをしながら歩いているので、数分歩くごとに少しずつ遅れ始めた。 小走りして、追いついてはまた遅れ、追いついては遅れと繰り返すこと30分。ようやく空が明るくなり始めた頃、瀬古さんは折り返して、元来た道をまた猛烈な速さで歩き始めた。 今振り返ると、感動的な一場面かもしれないが、そのときは「これが明日からいつまで続くのだろう」と恐怖と不安でしかなかった。 約1時間歩いて、ようやく旅館の前に着いたときには、私は汗だくで、石を持ち続けた上腕二頭筋は、伸ばすのを拒むかのようにパンパンに張っていた。 「なんだ、ウォーキングか」となめていたが、こんなにきつい朝練習は初めてだった。 このように、世界を目指す私に対する瀬古さんの指導は、歩いて土台づくりを始めるところからスタートしたのだった。
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