「セクシー田中さん」原作者を追い詰めたSNSの“安直な正義感” 当事者以外が善悪をジャッジする危険性
攻撃的な投稿をした人たちも無関係ではない
本来は部外者であるはずのネット民たちの安直な正義感が、原作者を追い込んだ可能性は否めない。 「芦原先生からすれば経緯を説明したにすぎないのに、それを勝手に解釈した第三者たちがネット上で攻撃を始めてしまった。ドラマにかかわった人たちに感謝の思いを届けるどころか迷惑をかけてしまったと、先生に自責の念を持たせてしまったのではないでしょうか。SNSの声って人を殺すほど相手を傷つけるものなんです」(同) 原作者の急死を経てもなお、SNSの名もなき人々の声は収まるどころか肥大化していく。 「今回の問題で危惧されるのは、芦原さんはテレビ局や脚本家が原作を改変したせいで亡くなったんだ、とたたく投稿が多く見受けられ、一部メディアの論調もそちらに迎合しつつあることです」 と指摘するのは、インターネットリテラシーに詳しい国際大学GLOCOM客員研究員の小木曽健氏だ。 「冷静に考えれば、芦原さんの遺書は公開されておらず、ネットユーザーの投稿内容は大半が臆測や個人的な見解です。むしろ芦原さん自身の最後の投稿内容を見れば、自身が経緯を説明したことで炎上が起きて事態をコントロールできなくなった、その騒動による心労で傷ついた可能性も大いに考えられます。その場合は、テレビ局や出版社だけではなく、騒動初期にネットで攻撃的な投稿を繰り返した人たちも、芦原さんの死と無関係ではないということを認識しなければなりません」(同)
「クセを持った道具」
さらに小木曽氏はこうも言う。 「この問題には登場人物がたくさんいて、相当なボタンの掛け違いがあったのは間違いありませんが、表に出ていない事実もあるはずで、 当事者ではない人たちが善悪をジャッジするのは非常に危険だということ、この点をしっかり理解する必要があります。臆測に基づく騒動で芦原さんが亡くなった可能性を考えれば、不測の事態の『連鎖』という、もっと最悪の事態も想像できるはずです。“いったん立ち止まろう”という気持ちにもなれると思うのですが……」 日常生活に置き換えても、訳知り顔で物事を語ったり、事情も知らないまま罵詈雑言を叫ぶ人物がいれば、周囲から距離を置かれるだけだろう。 「ネット空間において誹謗中傷や過激なコメントをする人は、世の中のごく一部で、大多数の人はそれらに同意しておらず、だからと言って反論することもなく、普通はただ黙って見ているだけです。でも、そうした大多数の人はネットの世界では姿が見えないので『存在しない』ことになってしまう。すると、あたかもネット全体が怒りや批判に満ちているように見えて、極端な考えが“主流派”であるかのような錯覚に陥ってしまうわけです」 むしろネットやSNSはそういう「クセを持った道具」なのだと冷静に見守ることが肝要だとして、小木曽氏はこう続ける。 「日常で一線を越えたら罰が科されるのと同じように、ネットでもやってはいけないことは一緒なのです。匿名のアカウントでも、一線を越えた誹謗中傷を投稿すれば、最終的に身元が特定されます。『自分はこの投稿を自宅玄関に張れるだろうか』とぜひ読み返してほしいです。それがネットに投稿できる適切な内容の『判断基準』だと考えてもらえればと思います」