「読みやすい文章」を書くコツがあった!…「言いたい事」ではなく「言いたいこと」と書く、コラムニストの「漢字への感覚」
文章を書くときに起こること
生まれたときに何がふつうに存在しているのかによって世界は違って見える。 世代の区切りもわかる。 【マンガ】カナダ人が「日本のトンカツ」を食べて唖然…震えるほど感動して発した一言 いまどきだと、パソコンやスマホは、生まれたときからあったのか、人生の途中で現れた後輩なのか、それによって見えている風景が違う。 私は、携帯電話もスマホもパソコンも、ついでにファミコンなどのゲーム類も、すべて「いい大人」になってきてから見かけるようになった世代である。それらの先輩だ。 つまり、そんなものがなくても、人生は何とか過ごせるんじゃないか、と考えてしまう世代でもある。 20年前は、東京でのJRやメトロの乗り換えを、インターネット検索せずに、さくさくやっていた世代でもある。 しかも私はメトロと私鉄とJRの路線をかなり細かく覚えていて、「それは飯田橋から有楽町線乗り換えがいい」とか、「赤坂見附でホームの向かいに乗り換えるのが早い」とか、いちいち人に教えていた側なのだ。 でも、どういうふうに脳を動かして指示していたのか、いまとなってはもう忘れている。 20年前とは路線の数も違っているし、いま、インターネット検索をせず、記憶だけで乗り換えようとはしない。 脳は使わなくなると、その部分の働きは悪くなるようでもあり、情報は常にあたらしいもので見直したほうがいいということでもある。 文章を書くときもまた、同じようなことが起こる。
文章が読みにくい理由
もともとは、原稿用紙にペンで手書きで原稿を書いていた。そういう世代である。 いまとなれば、キーボードを叩いたほうがかなり早い。手書きに戻りたいとはおもわない。 でも手書きの時代(および、予測変換などしてくれないワープロしか使っていなかった時代)、そのときに形成された「書きぐせ」は残っている。 たとえば、「言いたい事」「そんな時」というような漢字は使わない。「言いたいこと」「そんなとき」と書く。 いちおう理由があって、「言いたい事」は、「いいたいコト」とも「いいたいジ」とも読めるからだ(と書いていて、いいたいじジって読むやつなんかいねえよと自分ではおもっているのだが、それはさて措き)、そんな「時」も同じである。二種類の読みかたができるときは、漢字は使わない、という原則である。(ちょっとうまい例文じゃなくてごめんなさい) 強ち、苟も、恰も、などの「副詞」の場合も漢字を使わない。 だって読みにくいもん。 基本、雑誌の文章を書くところからキャリアを始めているから、漢字を少なく、読みやすいもの、音読できるように、とそこを心がけている。 予測変換の時代に入る前に、そういうスタイルを決めたから、それはそのまま守っている。 予測変換などの機械の指示は、だいたい最大平均というか「みなさま、そうなさっているので」という提言が多い。主張の少ない平凡な表現を目指しているのならともかく、何かを言おうとしている文章では、そういう提言を避けている。 自分の目指している文章の地平が見えてないと、どこを漢字にするか、どこをひらがなで行くかが決まらない。そのまま、何でもない文章ができあがったりする。 自分の言いたいことは何なのか、それを読んだ人をどういう気持ちにしたいか、そこだけを考えるのがいい。 「こう書くとかっこいいかな」「これ書くと賢く見えるかな」と一瞬でもおもったら、そこで試合終了である。読みにくい文章ができあがってしまう。 「漢字への感覚」をどれぐらい研ぎ澄ましているのか、ということも大事である。 だいたい「かっこいいとおもわせたい漢字」「賢いとおもわせたいと言い回し」ということを意識した瞬間に、文章はくずれていく。 漢字をどう使うか、そもそも漢字によって読む人をどういう気分にするつもりなのか、その覚悟を決めておいたほうがいいのだ。 基本中の基本は、漢字は、もともと我が国で作ったものではない、と言うポイントである。