『ガールズ&パンツァー』で活躍するBT-42突撃砲のご先祖様! クリスティー式を採用したM1931とは? 天才エンジニアの苦心が戦車で結実
第1騎兵連隊で実施された戦闘車T1の部隊運用テスト
第1騎兵連隊によるT1戦闘車のテストは、 第67歩兵連隊の試験とほぼ同時期に始まった。騎兵連隊に送られた車輌は、歩兵連隊でテストされたコンバーチブル戦車T3と基本的には同一の構造をしており、クリスティーが製造した9輌のM1931のうち、試作3号車、試作4号車、試作5号車、試作8号車の4輌が割り当てられた。ただし、歩兵連隊とは異なり、これらの車輌には固有の愛称はつけられていない。 予定では武装や車載装備、無線機などは車輌とともに配備される手筈になっていたのだが、結局装備品は試験終了まで納品されることはなく、試験部隊では自主的に連隊保有の12.7mmブローニングM1918オートマチックライフル(BAR)を主武装として装備し、無線機を追加している。なお、M1918を当時開発中だった同口径のブローニングM2重機関銃に換装することも検討されたが、結局実現することなく終わっている。 歩兵のT3と同様に騎兵のT1でも部隊試験や演習参加と並行して適時改良が施された。その中でも大掛かりな改修が、 ・T3E1と同じくギヤドライブ式のコンバーチブルドライブに改造された車輌(マイナーコードT1E1) ・心臓部をリバティL-12エンジンに代えてカミンズ製直列6気筒ディーゼルエンジンに換装された車輌(本来はT1E2のマイナーコードが与えられるはずであったが、実際にはそうはならずにこの形式番号は欠番とされた) ・最高出力210hpのアメリカン・ラ・フランス製V12エンジンに換装された車輌(T1E3のマイナーコードが与えられたが、試験結果が芳しくなく再びL-12に再換装されている) この計3輌に対して行われた。
第二次世界大戦で連合軍の英雄となるパットンがデモンストレーションを視察
騎兵によるT1の試験はフォート・ノックス駐屯地を中心に、全米各地の陸軍施設に車輌を移送して実施された。T1やT3の高性能はすでに陸軍関係者以外にも知られるところとなり、軍人や軍属だけでなく、民間の技術者、政治家、新聞記者などが連日のように見学に訪れたという。 そんな1932年4月のある日のこと。バージニア州フォート・マイヤー駐屯地で開催されたT1のデモンストレーションにひとりの騎兵将校が視察に訪れた。 オリーブドラブ色に塗られたスタッフカーのシボレーから降り立った壮年の将校は身長187cmの立派な体躯の持ち主で、眼光は鋭く、攻撃精神の表れのように顎は突き出しており、他人を寄せ付けないかのような厳しい面構えをしていた。軍人らしく姿勢は正しく、糊のよく効いた軍服を隙なく完璧に着こなしており、よく磨かれた彼の履く騎兵用ブーツはまるで鏡のように周囲の景色を曇りなく写し出している。右腰のホルスターには唐草模様の見事なエングレービング(彫刻)が施され、象牙製のグリップをあしらったシルバーフィニッシュのコルト・シングル・アクションアーミー(SAA)が吊るされていた。1916年5月14日、作戦の総指揮官であるジョン・パーシングの副官としてパンチョ・ビリャ懲罰遠征に参戦した彼は、コルト社に特注したこの拳銃でビリャの護衛隊指揮官であったユリオ・カルデナス将軍ら3人を射殺したのだ。 ジョン・パーシング(1860年9月13日生~1948年7月15日没) アメリカ合衆国の軍人。1886年に陸軍士官学校を卒業し、アメリカ先住民との戦役で活躍した。1898年の米西戦争、1899年の米比戦争で輝かしい軍功を挙げ、陸軍内でパーシングの名を知らぬ者はいなくなる。1914年にメキシコ国境の第8旅団長に就任。翌々年のパンチョ・ビリャ懲罰遠征で遠征軍の総指揮官を務めた(このときに新任少尉のパットンが幕僚に加わる)。1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、欧州派遣軍の総司令官に任じられ、「アルゴンヌの攻勢」や「サン・ミエル突出部の戦い」を指揮し、連合国の勝利に大きく貢献した。1921年に陸軍総参謀長に就任し、退役までの3年間この色にとどまった。その後は悠悠自適の老後を送り、1931年には回顧録『世界大戦での経験』を執筆している。彼の名はM26重戦車(『ガールズ&パンツァー 劇場版』に登場する)と中距離弾道ミサイルMGM-31にその名が冠されている。 その男の名はジョージ・スミス・パットンJr。のちの第二次世界大戦で北アフリカ、シチリア、フランスと欧州戦線を転戦し、米機甲部隊を率いてドイツ軍と戦い、華々しい活躍によって連合軍に勝利をもたらした立役者のひとりだ。このときは陸軍大学で戦車の機甲戦術と運用を研究する一介の少佐に過ぎなかったが、歴戦の将軍を思わせる尊大な態度からは大器の片鱗を予感させていた。 ジョージ・スミス・パットンJr(1885年11月11日生~1945年12月21日没) アメリカ建国以来の軍人家系に生まれ、幼い頃から英雄願望が強く、軍人になることを宿命づけられて育つ。陸軍士官学校に在籍中、ストックホルムオリンピックの近代五種選手として参加した。五輪後はフェンシングの経験からM1913騎兵刀をデザインする。初の実戦はジョン・パーシングの副官として参戦した1916年のパンチョ・ビリャ懲罰遠征で、第6歩兵連隊の兵士10人と共に自動車を用いてビリャ個人の護衛隊指揮官フリオ・カルデナス将軍を殺害するという功績を挙げる(米軍初の自動車を用いた作戦)。第一次世界大戦にアメリカが参戦すると、新編された戦車部隊の隊長として活躍。戦時昇進で大佐に進級するが戦争終結に伴い少佐に戻された。以降は陸軍内の戦車通として知られるようになり、陸軍省に出仕して戦車の戦略・戦術・運用研究を行う(のちに連合軍総司令官となるドワイト・D・アイゼンハワーとこの頃親友になる)。「戦争好き」を公言するパットンに平和な時代は耐え難かったようで、欧州から取り寄せたスポーツカーやヨット、ポロなどの趣味に浸ったり、極端な甘党になったり、酒に溺れたり、癇癪を起こして家族と不仲になったり、娘の親友であったジーン・ゴードンと不倫関係になったりと、旺盛な戦意を持て余して私生活は乱れた。しかし、1930年代後半に戦争の機運が再び高まると野戦指揮官として本来の自分を取り戻して行く。戦間期のパットンは少佐から中佐に進級するのに14年も掛かるなど能力に比して昇進が遅れていたが、これは指揮下の部隊を精強にするため部下を必要以上に厳しく指導したこと、裕福な実家を背景に営内で貴族然とした贅沢な生活を送っていたのが嫉妬の対象になったこと、さらに結果さえ出せば上官の非難や叱責も気に留めないという傲慢な態度が陸軍内で不興を買ったことが原因とされる。写真は1919年に撮影された戦時昇進で大佐になったパットン(終戦後、元の階級に戻される)。 彼はさも当然のように来賓席の最前列、デモ走行がよく見える場所に陣取ると、一瞬も見逃すまいと目を見開いて走行するT1を注視した。そのスピードと機動性は彼の知る戦車のそれではなかった。 パットンは第一次世界大戦に米欧州派遣軍の一員として派遣され、新兵器への興味から戦車大隊の指揮官に志願し、これが上司であるパーシングに受け入れられて陣頭指揮を執っている。 1918年8月の「サン・ミエル突出部の戦い」では、自らルノーFT-17軽戦車に乗り、歩兵大隊との共同作戦を砲弾飛び交う最前線で指揮して戦闘に勝利したのだ。パットンは戦車の戦術・戦略的な重要性をこのときの実体験によって見出したのである。さらに、この功績によってパットンは「米陸軍きっての戦車通」としてその名が世間に知られるきっかけにもなった。そんな彼をしてT1が見せつけた画期的な性能は、当時の戦車の性能を大きく超えた規格外なシロモノに見えたのだろう。 「まったく想像以上だな。37mm砲を載せられる旋回砲塔を備えた本格的な戦車に改修されてなおM1928並に動けるというのか? それに車体正面の傾斜装甲……あれは被弾傾始の概念を設計に取り入れたのか。そうか。火力と防御力を高めながら重量増を招くことなくM1928を再設計したのだな。これはすごい。この戦車の存在は間違いなく戦争のあり方を根底から覆すぞ。ワシは確信した。これこそ将来の合衆国陸軍に必要な装備だ!」 T1が演習場を疾走する姿を見たパットンは、その革新性をひと目で見抜き、誰が聞くともなしにそう呟く。 彼が陸軍省に出仕してワシントンD.C.で勤務していたときに、デモンストレーションのため国会議事堂を訪れたM1928を見学する機会があり、その後、アバディーン試験場で不整地を縦横無尽に走る姿を見てクリスティー戦車の熱烈な支持者になったパットンであったが、M1931の姿を見るのはこの日が初めてだった。デモンストレーションの時間はおおよそ30分ほどだったが、その衝撃の大きさからパットンにとっては短くとも永遠に感じられた時間であっただろう。だが、それもついに終わりのときを迎える。 ひとしきりフィールドを走り終えたT1は、エンジンから野太い唸り声を上げ、キャラピラからキュラキュラと音を鳴らしながら来賓席のほど近くまでやってきて停車した。目の前にある試作戦車をその目で認めたパットンは「よし、試してみるか」と独り言ち、広報担当士官が来賓に向けて説明会の準備をし始めたことなどおかまいなしに、堂々とした足取りで戦車に近づいて行く……。