下重暁子 清少納言の「短く言い切るセンス」と「物事を直截に表現する力」に圧倒されて…『枕草子』は<俳句そのもの>
2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』で注目を集める平安時代。主人公の紫式部のライバルであり、同時代に才能を発揮した作家、清少納言はどんな女性だったのでしょうか。「私は紫式部より清少納言のほうが断然好き」と公言してはばからない作家、下重暁子氏が、「枕草子」の魅力をわかりやすく解説します。縮こまらず、何事も面白がりながら、しかし一人の個として意見を持つ。清少納言の人間的魅力とその生き方は、現代の私たちに多くのことを教えてくれます。 【書影】下重暁子が迫る、清少納言の才能と魅力『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』 * * * * * * * ◆清少納言の文体は俳句に近い この記事は、私の独断と偏見なのだと、最初にお断りしておきたい。学問的に言えば、なんの根拠もないとおしかりを受けることを承知で書くことにした。 私の感性だけでそう思ったというに過ぎない。だからといって自信がないかと言えばそうでもない。 清少納言の「枕草子」は、俳句そのものなのだ。 俳句は連歌の上の句である五・七・五で作られた定型詩で、十七語、十七音とも呼ばれる。 清少納言が「枕草子」を書いた時代、つまり平安時代に俳句という短詩型の分野は存在しなかった。 江戸時代になって松尾芭蕉あるいは、小説家としての方が名高い井原西鶴らが、俳諧師として活躍。座の文芸として集った人々が五七五の発句(ほっく)と七七の脇句を交互に連ねて歌仙を巻き、俳諧師という職業の人々が中心になって、一つの物語をつくる遊びが生まれた。 それは俳諧と呼ばれたが、もとはといえば、平安時代半ばに流行した長短二句を唱和する連歌(れんが)の流れを汲んだものである。 曲水の宴などと呼ばれる、庭の池や流れにそれぞれ陣どって前の五七五につなげて七七と連想をつなげていく優雅な遊び。
◆貴族たちの遊びから生まれ、やがて「俳句」となった 私も中国を訪れた時、大学の師であり俳人(桐雨)でもあった暉峻康隆先生のツアーで、その真似をしたことがある。 鵞池(がち)という王羲之ゆかりの蘭亭(浙江省紹興市)の庭の池のまわりに好きな場所を占め、池の流れに沿ってゆらゆらと酒を注いだ盃がまわってくるまでに次の句をつけてゆく。 難しいが楽しい遊びであった。 三十六歌仙巻き終わった時の満足感! 十人ほどの参加者の頬は、酒のほてりも加わりほの赤く輝いていた。 暉峻先生もいつにも増して満足げであった。 もともと貴族達の遊びだが、こうした和歌、連歌の流れから、江戸になって庶民の文芸になり連句と呼ばれるようになる。 俳句という名称は明治期、正岡子規にはじまり、高浜虚子が提唱して以降、定着したといわれる。
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