「忖度」は何が悪い―「忖度」と家文化 不祥事、天下り、現代日本の弊害
東電、東芝、文科省……忖度が奪った現代日本の活力
このような日本の風土に育まれた文化的習慣を、欧米から始まった個人の意思と自由と責任を基本にした法治社会に転換するのは、樹木を接ぎ木するような難しさがある。 実は、この忖度というものが、現代日本の活力を奪っているともいえるのだ。 重要な決定が、合理的にではなく、政治的な忖度によって決定される。重要な人選が、実力によってではなく、人脈的な忖度によって選定される。そういったことが、官僚組織だけでなく大企業にも大学などの法人にも蔓延している。東京電力の原発運営にも、東芝の経営悪化にも、文科省の天下り斡旋にも、類似した構造があったことを感じざるを得ない。 日本社会の隅々に、眼に見えない忖度の網の目が、粘着質の生命体にようにジットリと張り巡らされている。権力というものも、少数者の独裁というより、社会全体のその小さな網目の一つ一つに発揮されるものなのだ。これは文章にも言葉にもならない粘着力であるだけに、検察もマスコミも追求することが難しい。そして人体に動脈硬化が進行するように、徐々に社会の血管が目詰まりを起こす。平和と繁栄と安定が続いた島国の日本は、すでにかなりの重症であるかもしれない。 そう考えれば、忖度は、伝統文化として済ませているわけにもいかないのだ。われわれはそれが悪弊として作用しないよう、社会システムを大胆に刷新していく必要がある。
森友学園にみえた首相の弱点
今回の森友学園問題では、忖度があったかなかったかが問われている。首相側にその意思がなければ、これは忖度以前の問題というべきであるが、たとえそうであるにしても、当事者(官僚)が勝手に何らかの心情的同調を示し、不当な決定をしたのなら、それは大いなる傲慢であり、許されるべきではない。そしてその同調を利用しようとした人間も、単なる変人として済ますわけにはいかないのだ。 いずれにしろこの問題においては、安倍首相最大の弱点が露呈された、と筆者は考える。 その弱点とは、健康問題ではなく、周辺人材の問題である。首相は、かなり国粋主義的なグループに支えられている。そこに日本社会の伝統的不合理と、偏頗な排他性と、情緒的甘えが顔を出す危険がある。 首相はそれが弱点であることを認識すべきだ。 そして大いに反省し、情緒的仲間意識を捨てて、合理的判断に基づき、真にこの国の将来をリードすべき人材を活用する方向で、内閣改造を含む重要ポストの入れ替えを断行すべきである。すでに閣僚周辺の不祥事が続いているではないか。 その上で、つまり復古調の開き直りではなく、未来志向の姿を示すかたちで、国民の信を問うていただきたい。 久々の長期政権である。これは外交の上でも、経済の上でも、悪いことではない。これまでのように一年二年で総理が交代するのではガバナンスが疑われる。しかしどこの国でも、あまりに長い政権は、独善、腐敗、停滞を招きやすい。支持率にあぐらをかいていては、歴史の検証に耐える政治家にはなれないだろう。短期的なポピュリズム的な支持ではなく、長期的な質の高い支持を求めるべきだ。 高温多湿の風土の中、締め切った「家」の空気は淀み腐る。絶えず窓を開け、新風を吹き込むことが肝要だ。 常に新鮮であること、それこそがこの国の美意識というものである。