「忖度」は何が悪い―「忖度」と家文化 不祥事、天下り、現代日本の弊害
源氏物語の住宅様式にみえる「柔軟で繊細な人間関係の美意識」
例えば『源氏物語』には、平安貴族の住居空間における人間(男女)関係が描かれるが、それが日本の住宅様式と美意識の原型にもなっている。 主人公光源氏をめぐる恋愛の物語で、舞台は源氏が訪れるさまざまな女性の住まいである。宮殿のように豪華な家もあれば、荒れ果て寂れた家もある。密会であるから、源氏は玄関からではなく庭から忍び入るのであるが、寝殿造という様式において、女性は、前栽、格子、蔀、簾、障子、屏風、几帳といった「柔らかい多重の隔て」によって守られており、男性はその一つ一つを乗り越えて近づいていく。 その家と庭の描写が、そこに住む女性の性格プロットでもあり、風情と情緒のバリエーションでもあり、いくつもの隔てを越える過程の描写が、この物語の恋愛記述様式なのだ。男女の関係も、その繊細な隔ての襞の中に醸成され、好悪や愛情の露骨な表現ではなく、簾越しの会話、歌のやりとりなど、微妙に相手の気持ちを慮るかたちで進行する。 もし『源氏物語』がなかったら、そういった「もののあはれ」の美意識が伝えられなかったら、千利休の草案茶室も、八条宮の桂離宮も生まれなかったであろう(これには詳しい説明が必要だが、興味のある方は拙著『「家」と「やど」』朝日新聞社刊参照)。 石や煉瓦という重厚な壁による不動の隔てではなく、木や葦や紙といった柔軟で繊細な、多重かつ可動の隔てによって囲まれた空間における、柔軟で繊細な人間関係の美意識である。
家基本の社会ではたらいた「忖度」
また筆者は、「壁の文化と屋根の文化」という比較論を書いたこともある。 厳密にいえば地域と風土によって異なるが、大まかに西洋では、石や煉瓦を積み上げて建築をつくり、その基本は「壁」である。屋根は、壁の上に乗せられるカバーに過ぎない。 一方、日本の建築は木を組み立ててつくり、その基本は「屋根」である。壁は、屋根の下の簡単な仕切りに過ぎない。 壁とは、空間を隔て、人を隔てるものだ。重厚で不動の隔てである。 個人の空間を隔てたものが個室であり、家族の空間を隔てたものがサロン(リビング)であり、市民の空間を隔てたものが広場であり、信仰の空間を隔てたものが教会である。ヨーロッパの都市は、そういった隔てられた空間の集合なのである。 一方、屋根とは、人をまとめて覆いをかけるものだ。 そこに「家」ができる。障子や襖という紙で仕切られた家の中にはプライバシーが存在しない。そこで個を立てるには、家を出る、すなわち出家する必要がある。 実際ヨーロッパの都市は、建築が隣の建築と密着して一つ一つの家という感覚ではない。イスラム圏はもっとそうで、インドも中国もその傾向がある。一つの建築の内部でも部屋と部屋は厚い煉瓦の壁で隔てられているから、そこに完全な個人の空間が成立する。 日本では東京のような大都市でさえ、家のまわりに隙間を空けて、塀で囲って土地を取ろうとする。家の集合は村であり、都市もまた大きな村に過ぎない。個人の論理も、都市の論理も、自治の論理も希薄なのだ。 社会構成の上にも、この「個人の論理」と「家の論理」が反映されている。ヨーロッパの社会は「個人」の集合であるが、日本社会は「家」の集合であり、個人はどの家に所属しているかで認識される。封建時代の「藩」も、近代の「国家」も、現代の「企業」や「省庁」も、その「家」の一形態ととらえられる。 つまりこの国は、現代の個人主義的、民主主義的社会においてさえ、その社会構成に「家文化」の特徴が強く見られる。「国家」という言葉のとおり、国全体が天皇を家長とする一つの「家」でもあるのだ。ここにおいても、人それぞれの主張より、無言のうちに相手の気持ちを慮ることが優先される。 「忖度」とは、そういった、柔軟で繊細な人間関係と、「家」を基本とする社会にはたらく、以心伝心のコミュニケーションであり、行動様式であり、美意識であった。