「いっそ高市新党を」の声に石破総理の「青い鳥は外にはいない」の見解
なぜ私は離党したのか
1993年6月、宮澤喜一内閣に不信任案が提出されました。細かい経緯は省きますが、この時、自民党内に賛成に回った議員が多く出ます。私もその一人でした。この直後に離党して新党を作ったのが小沢一郎氏や武村正義氏です。小沢氏は賛成してから離党、武村氏らは反対したのちに離党して行動を起こしています。 その後、私はしばらく離党はせず自民党に残っていたのですが、直後の総選挙では公認をもらえず無所属で出馬し、トップ当選というありがたい結果をいただきました。その後、新党に参加することを決意したのは、河野洋平自民党総裁(当時)の下では、憲法改正論議を凍結する、という方針だったことが原因でした。 長年、憲法改正を党是としてきた自民党が下野したからといって、その旗を降ろすというのはまったく理屈に合いません。他方、小沢氏率いる新生党は集団的自衛権の行使容認を政策として掲げ、憲法改正にも積極的だということで、私は「本来の保守は新生党になったんだ」と思い、入党することにしたのです。 ところが実際には、そうした政策論議が党内で行われることはほとんどなく、来る日も来る日も権力闘争が繰り返されているという有様でした。憲法改正や安全保障問題など私が重要だと思うようなことを、党内で議論しても、それが党としての政策に反映されることはなかったのです。本格的な政策論議をするため、というお題目で小選挙区導入を推進したはずなのに、目にしたのはそんな理想とはほど遠い現実でした。 新生党はいくつかの新党と合従連衡したのちに新進党となりました。大きな党となり、自民党と対峙して二大政党制を確立する、その政治改革の夢が実現したかのように見えました。しかし総選挙直前になってその新進党が打ち出したのは、「集団的自衛権は行使しない」「消費税はこれ以上上げない」等といった、それまでとはまったく異なる政策でした。 こうして、私が自民党を離党してまで取り組もうとした政策は、ここでもまた否定されました。 結局、次の総選挙では再度無所属として立候補し、当選を果たしたのち、私は自民党に復党します。