まとめたのは髪だけじゃない 「髪結床」主人のハイブリッドな仕事ぶり
町の談話室=髪結床
髪結床が文化的に重要な拠点だったのは、髪結の主人が頼り甲斐のある人物だったからだけではない。髪結には時間がかかるので、混雑していれば待つのも長くなる。なので、待っている客同士、話をしたり、将棋を指したりして、一種のサロンとなっていたのである。 だから、こんな川柳も残っている。 あしたでも 剃ってくれろと 飛車が成り 髪結の順番がきて呼ばれても、将棋が盛り上がっていてそれどころの話ではない。せっかく待っていたのに、「髪結は明日でいいや」というわけである。牧歌的な時代の空気を感じさせる一句である。 しかし、時代は移り変わり、人々も変わっていく。そして、髷を結って月代を剃る男性の数が一気に減少する契機となったのが、1871(明治4)年公布の「散髪脱刀令」である。開化政策の一つとして出されたこの公布は、散髪脱刀を義務付けたものではなく、その自由を認めたものだったが、庶民の多くはこれ以降、髷を結うことも月代を剃ることもなくなった。 1872(明治5)年3月の『名古屋新聞』には、このような記事がある。 東京府下結髪店およそ三千余軒あり、近来紙格(しょうじ)に英仏髪はさみ所と題し、店前に赤と青の捩れたる棒高さ九尺ばかり、頂に金の玉を附したる看板を建てたり(中略)府下の住人概して八分は散髪なりと。 洋化政策の一つであるとして散髪令に強く反発する士族もいたが、庶民に関して言えば、歓迎した者も少なくなかったようである。当時の流行歌にも、こうある。 半髪(ちょんまげ)頭をたたいてみれば 因循姑息の音がする 惣髪(そうはつ)頭をたたいてみれば 王政復古の音がする 散切り頭をたたいてみれば 文明開化の音がする 「因循姑息」とは、旧習を改めず、その場しのぎであることを指す。このような言葉で批判されたのが「髷を結って月代を剃った髪型」であり、対して洋風の髪型は「先進性の証明」とされたのである。 こうして、相談役だった髪結の亭主や、談話室としての髪結床は少しずつ消えていく。残念なことではあるが、頭頂部を削がれることを心配しなくてはならない日々というのも、確かにちょっと嫌かも知れない。 (大阪学院大学経済学部教授 森田健司)