まとめたのは髪だけじゃない 「髪結床」主人のハイブリッドな仕事ぶり
相談役だった髪結の主人
さて、こういった髪結床が、当時どういった役割を担っていたのだろうか。それは、髪結に相当時間がかかることから推察できる。明治・大正時代を代表する木彫家・高村光雲は、髪結床の思い出を次のように語っている。 床屋の主人は何んでも世話を焼いて、此所(ここ)で話が決まるという風。お祭礼の相談、婚礼の話――夫婦別れの悶着、そんなことに床屋の主人は主となって口を利いたものです。 ―高村光雲『幕末維新懐古談』(岩波文庫)、27ページ 髪結床の主人は、頼れる「町の相談役」だった。長い作業時間に、客と様々な話をして、ときには揉め事の解決に出向いてくれることもあった。実際、光雲は大工のところに奉公に出る前日、髪結床の主人の薦めでそれを取り止め、木彫家に弟子入りすることになったという。髪結床の主人は、仕事後に光雲の家に出向き、父親を説得したというのだから、ただの理髪師とは相当違っていたことがわかる。 これは、光雲が常連だった髪結床の主人に限ったことではない。彼らは、程度の違いこそあれ、相談役であることに変わりはなかった。だから、髪結になるには、例外なく高いコミュニケーション能力を要求されたわけである。 もちろん、髪結いの技術自体も簡単なものではなく、特に月代を剃るのが難しかったという。修行時代は毎日自分の膝を剃らされ、銭湯で湯が沁みてつらかったなんて証言もある。そして、一人前になってお客の頭を剃るときも、新人は結構な失敗が多かったようだ。 頭で遣損じて、脳天をヨク西瓜を殺いだようにゲッソリ殺(や)ってしまうんですが、中にゃア「イヤ金が身に入ったのだ。縁起がよい」と苦い顔をしながら親方を諭(なだ)めて下さる方もあるが、ソウばかりはゆかない。 ―篠田鉱造『増補 幕末百話』(岩波文庫)、155ページ 聞くだけで頭が痛くなりそうな話である。しかし、頭皮を削がれて「イヤ金が身に入ったのだ。縁起がよい」などと言える江戸っ子の、なんと粋なことか。