「都市と山村」を行き来する「土着の思想」の実践 競争社会的生き方とは別の生き方を育む「苗代」
わたしはときどき散歩に出たり、市場へじゃがいもを売りにいく小作人の二輪馬車の後からついて行ったことがある。彼は、サント・ヴィクトワールを一度も見たことがなかった。彼らは、あっちこっち、道に沿って何が植わっているか、また、明日はどんな天気か、またサント・ヴィクトワールに冠がかかっているかどうか、などは知っている。犬猫のように、彼らは自分たちの必要にだけ応じてかぎつける。(ジョワシャン・ガスケ著、与謝野文子翻訳、高田博厚監修『セザンヌ』求龍堂)
ある種の黄色を前にして、あの人たちは自発的に、そろそろ始めなければならない刈り入れの仕草を感じとるのだ。(同上) ■言葉を信じない地縁共同体への反発 私にとって、「土着」の思想とは、言葉の対極にある思想であり、生き延びるための知恵でもある。そうした考え方に私が共感できたのは、私が大田区の場末の工場で生まれて育ったことと関係している。私は、工場の職工さんたちから「お前は親父の後を継ぐんだ。手に職をつけろ。大学なんて行くとバカになる」と言われながら育った。
それは言ってみれば、言葉のない世界であり、言葉を信じない世界であった。私は、自分が生まれ育った言葉のない地縁共同体に強い反発を覚え、そのしがらみの世界から逃れることに必死だったように思う。 ときおりその頃のことを思い出すことがあるが、今なら言葉のない世界の住人たちが、その価値判断や実行力において言葉の世界に生きるものたちに劣るところはないということがよくわかる。吉本隆明が同じことを書いており、私は深くその影響を受けてきた。
2つの世界を往還した私にとって、相反する2つの世界を架橋することが、自分がものを書くことの動機であるとさえ思っている。拙著『21世紀の楕円幻想論』はその試みであった。 ■強い意志で平凡な日常を生きる 真兵くんの「土着思想」には、私が考えていたような、重苦しい、錆色の風景はない。 『男はつらいよ』の寅さんや、嘘を嘘と知りつつ演じ切る力技としてのプロレスについて語っているように、そこにあるのは、極めて現代的な風景の中における人間的な生き方への模索である。