「都市と山村」を行き来する「土着の思想」の実践 競争社会的生き方とは別の生き方を育む「苗代」
土着とは「逃れられない病」のことです。言い換えると「身を背けようと思っても背けられないもの」とか「わかっちゃいるけどやめられない」こと(同書172p) ブルージーでソウルフルでアーシーという意味を含むファンキーは、「逃れられない病」である土着の訳語にピッタリ(同書176p) ■敵対者は「競争社会」へ 真兵くんが「土着」という言葉に込めた思いは、私たちのそれとは少し違う。私たちにとっての「土着」の思想とは、日本封建制が強いてきた下層労働者や農民の怨念に根を張った思想だったが、真兵くんの「土着」にはそのようなルサンチマンはない。
そして「土着」の思想が照準している敵対者が少し違う。真兵くんの言う土着の対極にあるのは、私たちの時代における小児病的な左翼思想(もはや懐かしい紋切り型口調)ではなく、金銭合理主義的な、競争社会である。 私たちにとって、「土着」の思想は、自らの思考を鍛え直す指標のようなものだったが、真兵くんにとっては、「土着」とは金銭合理主義が支配的な資本主義的生き方とは別の生き方を育む苗代なのである。 真兵くんがこうした考え方を組み上げていった背景には、おそらくは文化人類学者たちが観察してきたもうひとつの社会、交換経済とは異なるもうひとつの経済、異なる原理の発見というものがあったはずだ。マルセル・モースや、クロード・レヴィ=ストロースが解読した部族社会の原理は、真兵くんたちの「彼岸の図書館」のような実践に、根拠を与えている。
私たちの時代にも、すでに上記の文化人類学者の著作にアプローチすることはできたが、当時の私にとっては、それは難し過ぎて、現実の生活のなかに、どのように実装し、実践すればよいのかよくわからなかった。 私は、もっと別の書物から、自分なりの「土着」の思想を理解しようとしていたように思う。それはたとえば、画家のセザンヌが、フランスの詩人であり、美術批評家でもあるジョワシャン・ガスケに語ったこんな言葉である。