「都市と山村」を行き来する「土着の思想」の実践 競争社会的生き方とは別の生き方を育む「苗代」
奈良県東吉野村への移住実践者で、人文系私設図書館「ルチャ・リブロ」主催者の青木真兵氏が、このほど新刊『武器としての土着思考:僕たちが「資本の原理」から逃れて「移住との格闘」に希望を見出した理由』を上梓した。同書を、元起業家で作家・珈琲店店主の平川克美氏が読み解く。 「土着の思想」を説く青木真兵氏 ■「土着」の意味が変わった 『武器としての土着思考』著者の青木真兵くんとは、これまで何度か対談してきた。 彼と私には、30歳以上の歳の差がある。それはちょうどワンジェネレーション、つまり親子ほどの世代の隔たりを意味している。彼と話をしていると、彼が日々考え、実践していることが、私たちが考え、実践してきたことと驚くほどよく似ていることに、ちょっとした感動を覚える。「同じだな」と思うのである。
とはいえ、微妙に違うところもある。時代が違うと言えばそれまでだが、おなじ言葉であっても微妙にその意味が変化してきているのを感じる。 たとえば、本書において何度も繰り返し語られる「土着」という言葉の語感である。この言葉は、私たちが学生運動に没頭していた時代(1970年代)にも、思想系の雑誌の紙面に躍っていた。 「土着の思想」の反対側には、「観念の思想」「形而上学的な思考」「現実の洗礼を受けていない純血思想」といったものがあったように思う。そこには、まだ現実と相まみえることがない、頭でっかちで、ブッキッシュな思想に対する、強烈な批判があった。
真兵くんは、この「土着」という言葉に、かなり独自の意味を付与している。それは例えばこんな具合である。 土着とは、自分にとっての「ちょうど良い」を見つけ、身につけること(『武器としての土着思考』20p) 実体経済がリアルであり、金融経済がバーチャルであるという二項対立的な図式の中でどちらかを選択せざるをえないと思い込んでしまうと、生きていくのが不自由になります。この対立的に語られがちな二者間を行ったり来たりしながら「ちょうど良い」ポイントを常に探っていく。僕はこれを「土着する」と呼び、推奨しています(同書74-75p)