堀川惠子氏、医療ノンフィクション『透析を止めた日』インタビュー「どうすれば夫は苦しまずに穏やかな最期を迎えられたのかを私が知りたかったんです」
『死刑の基準』、『裁かれた命』、『原爆供養塔』等々、ノンフィクション界の名だたる賞に輝き、常に新作が待たれる堀川惠子氏の新刊『透析を止めた日』には、2017年7月にこの世を去った元NHKプロデューサーの夫・林新氏(享年60)の闘病の日々を綴った「第一部」と、その死後に透析業界の問題点や希望をも取材した渾身の「第二部」とがある。
「メインは第二部ですから。夫にも『いつか書くからね』と伝えて録音も回していたし、個人的な闘病記で終わらせるつもりは私にも彼にも全くなかったので」 堀川氏は書く。〈2012年にわたる透析、腎臓移植をして透析の鎖から解き放たれた9年、そして再び透析に戻った1年余〉〈私たちは確かに必死に生きた。しかし、どう死ねばよいのか、それが分からなかった〉〈透析医療は、入り口は間口が広い〉〈一方で、そのビジネス市場から外れる「透析を止める」という選択肢の先には、まともな出口が用意されていない〉〈なぜ、膨大に存在するはずの透析患者の終末期データが、死の臨床に生かされていないのか〉──。 実は2022年時点で約35万の透析人口を持つ日本。にも拘らず、本書の内容の多くが私達には「見えていない景色」なのは、なぜ? 「私も知らなかったんです。透析を始めたら最後、〈やらなければ、死ぬ〉とか、〈透析十年〉とも言われる中で、尿毒症の恐怖に日々怯え、週に3日、4時間もの透析に耐えている人の苦しみや痛みを、彼の腕に埋め込まれたシャントを見せられるまでは、想像もしなかった。 実際、患者もその家族も毎日が精一杯なんです。今日が終わると1日休んでまた透析で、食事や感染症にも気を遣うし、送り迎えもあるしで、長期的展望が持てない。そして出口まで考えが及ばないまま本人が亡くなり、家族もつらくて思い出したくないとなってしまう。そうやって経験や知見が共有されていかない側面もあるとは思います」 堀川氏は2004年に広島テレビ放送を退社し、独立後、初めて企画を出した相手が林氏だった。以来、多くの番組を共に手がけた林氏は、32歳の時に指定難病の1つである多発性嚢胞腎を発症。38歳から血液透析を導入し、火木土の午前を透析にあて、そこから出社して月200時間の残業をこなす生活を、結婚後は堀川氏と続けた。 そして2007年、当初はドナー登録すらしていなかった夫を〈私の腎臓、使えないかな?〉と促す形で移植を考え始め、結果的には当時79歳の母から提供を受け、手術も無事成功。その移植腎が機能した9年間の公私に亘る充実ぶりや穏やかさ、また元慶應剣道部で『椿三十郎』を敬愛する林氏とのラブラブぶりには、こちらの頬までが緩んでしまう。 「やっぱり透析中はそれがいつできなくなるかという恐怖が常にあるわけです。風邪をこじらせて透析を回せなくなって亡くなる例もあるし、傍目には普通に見えるのに、止めたら死ぬ。それが透析で最も過酷で孤独な点だと思う。 移植後の透析のない9年はもう別世界でしたね。彼が珈琲を飲んだ瞬間、あ、もう水分も測らなくていいんだと安堵した日のことを書きましたけど、つい書いちゃうんですよ。私がどんなに彼を好きで、彼がどんなにカッコよかったかを。これでも全然書き足りないくらい(笑)。その度に書き直すんですけど、たぶん避けていたんでしょうね、再透析や辛い終末期の話に向かうのを。よかった時の話を上書きして自分を守る心理というか、当時のつらい記憶を体が拒否していた。 ただ素材的には血液透析↑移植↑再透析とテーマが揃ったわけで、非がん患者は緩和ケア病棟にも入れず、死ぬまで透析を回し続けるしかないことも、ちゃんと書こうと思いました」
【関連記事】
- 羊飼い兼業作家・河崎秋子氏、自伝的エッセイ『私の最後の羊が死んだ』インタビュー 「食べたものや経験も含めた身体そのものを信じてやれることをやるのが一番だと思う」
- 宮島未奈氏、疾走エンタメお仕事小説『婚活マエストロ』インタビュー「私にとって小説を読むことは発見だから、自分の本で嫌な気分にはさせたくない」
- 作家・井上荒野氏、恋愛長編小説『だめになった僕』インタビュー 「愛というのは大抵思い込み。でも思い込むこと自体は美しくて、だから切ないんです」
- 柴田哲孝氏、軍事サスペンス『抹殺』インタビュー「必要なのは1が好奇心で2に観察力。次が分析力で最後が表現力だと思う」
- 荻堂顕氏、新作長編『飽くなき地景』インタビュー 「戦争や昭和史の当事者が少なくなる中で非当事者が誠実に語っていくことが大事」