『若草物語』が出版から150年経っても愛される理由 フェミニズムの観点から進む再解釈
ルイザ・メイ・オルコット著『若草物語』は、南北戦争の頃のアメリカでマーチ家の四人姉妹が暮らす様を描いた小説である。1868年に出版されて以来、長く読み継がれ、幾度となく映像化されてきた。グレタ・ガーウィグ監督作、2019年公開の映画『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』は記憶に新しい。現在、本作を原案とした日曜ドラマ『若草物語―恋する姉妹と恋せぬ私―』が日本テレビ系で放送中だ。 【写真】日テレ『若草物語』で四姉妹を演じる堀田真由、畑芽育ら ここでは、150年以上も前に出版された『若草物語』が今なお愛され続ける理由について考えていきたい。 『若草物語』は家庭小説の元祖と言われる。家庭小説とは、将来的に家庭を支えることを期待された少女のために書かれたジャンルである。主に少女を主人公とし、家庭内や周囲との人間関係のなかで成長していく様が描かれる。読者は主人公の奮闘を読むなかで社会的な規範を内面化してゆく。19世紀の産業革命によって「男は仕事、女は家庭」という社会が成立し、それに伴って必要とされた良妻賢母を製造する装置として機能したのが家庭小説だった。 日本では『小婦人』として北田秋圃の訳で1906年に初めて出版された。当時の日本は女学校教育が始まったところで、良妻賢母に教育するツールとしての役割が期待されていたようだ。戦後になると翻訳書の出版数は跳ね上がり、毎年いくつもの出版社から訳者を変えて発売された。欧米型の望ましい家庭生活を女子に学ばせるのに『若草物語』はうってつけだった。 『若草物語』は、少女が社会に望まれる女性の生き方を学ぶ教科書として、大人が子供に与えたい本であった。しかし、教育的側面の強い作品を大人が子供に押し付けたところで人気が長続きするはずもない。『若草物語』が少女たちの心を掴んだのは、主人公である四人姉妹の次女ジョーの存在があったからだ。 ジョーの特徴は、男の子になりたい女の子であることだ。社会が決定した女としてのあるべき姿に嫌気がさし、自分が女に生まれたことを呪っている。思う存分本を読んだり、駆けっこをしたり、馬に乗ったりできないことに悩んでいる。つまり、『若草物語』は家庭小説の元祖にして、「女らしさ」というジェンダー規範に抵抗する主人公を据えたのだ。 ジョーの「男らしくありたい」という個性を最大限に活かすため、『若草物語』は巧妙に舞台を設定した。マーチ家は父親が不在なのだ。父親が北軍の従軍牧師として戦地に赴いているおかげで、ジョーは家庭の「長男」として振舞うことが許される。さらには結婚前の娘が働くことを見咎められる時代に、家の財政難を口実にして伯母の身の回りの世話をする仕事までしている。これは家に父親がいれば止められたことだろう。普通なら親に抑制されてしまう自由を手に入れることで、自らの手で人生を切り開けるという状況は、物語に大きな解放感をもたらした。 ジョーがいくら男らしく振舞っていても、恋愛という問題はつきまとう。今も昔も異性愛至上主義は世の圧倒的最大派閥だ。それでもジョーが恋愛を軽蔑できるのは、恋愛よりも重要な価値観があるからだ。それは友情である。ジョーと同じ歳の少年であるローリーが登場した際も、ローリーが男として敷かれたレールの上に乗ることを嫌うような人物だったことから、ジョーは意気投合して友人になることに成功する。この友情至上主義から生まれる登場人物の繋がりは児童文学の大きな魅力である。 また、友情という点で重要なのは、四人姉妹のシスターフッドだ。四人が互いに支えあい仲睦まじく暮らす様は本作において最大の楽しみである。そして、姉妹愛はジョーを動かす原動力となり、同時に試練を与える要因でもある。事故や病気、結婚といった出来事で姉妹が引き裂かれそうになるたびに、ジョーは何もできない自分の無力さを知ることになる。子供時代に男らしく振舞うことは簡単だ。乱暴な言葉遣いや態度でそれとなく示せばいいのだから。しかし、大人になり、責任や重圧がのしかかるようになったとき、ジェンダーロールの縛りが少女を苦しめるのだ。