石破氏が「新派閥」自民党の派閥とは? 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
中選挙区時代に権勢を誇った派閥
岸、池田、佐藤の3氏だけで5612日、15年以上にわたる長期政権が続いた後に、三木、田中、大平、福田、中曽根康弘(河野一郎派の流れ)の「三角大福中」の5氏の領袖による政権争奪戦はすさまじいものがありました。田中氏から三木氏へのバトンタッチ後は党内から猛烈な「三木降ろし」が吹き荒れ、結果として政権についた福田氏は政敵の大平氏を幹事長(総裁が首相職で忙しいため事実上の自民党トップ)にすえて安定を図るも再選を目指した総裁選の予備選挙で宿敵田中氏の強力な援護を受けた大平氏にまさかの敗北。 大平政権では福田氏らが反主流に回って国会の首相指名選挙で自民党から大平、福田の2氏が争うという異例の展開となり、かろうじて制した大平氏も野党が出した不信任決議案が福田派や三木派が大量欠席したため可決成立してしまい解散を選択し総選挙中に急死。 鈴木氏を挟んで政権を握った中曽根氏はロッキード事件のただ中にあった田中氏の支援を受け「田中曽根内閣」とからかわれていたのもつかの間、田中氏が東京地裁判決で実刑となるや田中氏との決別を宣言し得意の「風見鶏」の姿勢を露わにする……など凄まじいバトルを展開しました。田中氏のロッキード事件についても「政治は数。数は力。力はカネ」というあけすけな政治信条が「熱いお金」に手を突っ込ませたところが背景にあると推測されます。
小選挙区制への移行で弱体化
前述のように派閥政治の源泉ともいうべき中選挙区制が93年発足の細川護煕非自民連立内閣が進めた「政治改革」で現行の小選挙区比例代表並立制に変わり、また派閥の弊害の最たるものとされたうさんくさいカネ集めを止めるべく導入した政党交付金によって派閥の意味に違いが生じてきました。 それ以前にも派閥の限界を感じさせる出来事はありました。平成に入って最初の首相である宇野宗佑氏と次の海部俊樹氏はいずれも領袖ではありません。海部氏の後の宮澤喜一政権(領袖。池田派の流れ)で自民党が野党に転落し細川内閣が誕生。そこでの改革が大きな変化を生みます。 小選挙区は1選挙区で1人しか当選しません。同一選挙区で他派閥と公認権や当落を競う必然性がなくなったのです。公認権を持つのは幹事長。したがって小選挙区導入時は党執行部が権力を握りました。野中広務、古賀誠といった大物幹事長が差配しました。 ところが2001年に誕生した小泉純一郎政権あたりから雰囲気が異なってきます。「偉大なるイエスマン」といわれた武部勤氏を幹事長にすえるなど総理総裁が自ら候補者を決める権限を振るい始めたのです。真骨頂が2005年の「郵政選挙」で首相が推し進める郵政民営化に反対した自民党議員を公認せず、おまけに対立候補を公認して送り込むという徹底振りで大勝しました。 小泉首相は政権発足から派閥の大臣推薦リストも無視してオリジナルな組閣を心がけました。派閥の大きな役割であった「適齢期に順送りで大臣になれる」システムも崩壊したのです。以後の自民党総裁・首相で領袖なのは麻生氏のみ。小泉、安倍、福田康夫の各氏は違います。