妻を信じきれない40代エンジニアの「墓まで持っていく話」 #令和の親 #令和の子
本質的には自分にしか興味がない
僕の子供たちも、大切は大切だけど、やっぱりどこまでいっても他人ですよ。本心なんて知る由もない。 実は、子供たちの趣味がなんなのか、どういうことに興味を持っているのかは、よくわからないんです。会話もするし関係性も良好ですが、子供たちは本心を僕に見せてくれない。 いや、僕が積極的に知ろうとしないだけなのかもしれませんが。 結局、僕は、本質的には自分にしか興味がないんだと思います。そういう厨二っぽい考え方は親になったら変わる、と主張する人もいるけど、僕の場合、まったく変わりませんでした。 結婚しようが子供が生まれようが、僕の精神性には一切変化がなかったと言いきれる。今現在も、「美智子と別れた30年前の延長線上に立っている」という感覚が抜け切れていないんです。 これは妻や子供たちには絶対に言えないことですが……。今この瞬間、僕たち家族が歩いている歩道に、猛スピードのトラックが突っ込んできたとしましょう。そのとき、僕が子供たちや妻の身代わりになって死ねるか?と問われたら、「もちろん」とは即答できません。 その瞬間になってみないと、本当にわからないんです。もしかしたら、「妻や子供たちより、自分が生き残りたい」という気持ちが勝ってしまうかもしれない。 それこそ、この話は墓まで持っていきます。
「家庭円満」とは何か
※以下、聞き手・稲田氏の取材後所感 村松さんに取材していて、気になることがあった。ふたりのお子さんたちのパーソナリティについてどんな質問をしても、「子供たちのことは、あまりわからない」といったニュアンスの答えしか返ってこないのだ。 「子供とはいえ独立した人格として尊重しているからこそ、土足で踏み込んだりしないゆえの距離感の表れ」という解釈もあるだろう。 だが、どうしても引っかかった。今まで取材した父親たちの中では、群を抜いて「子供のパーソナリティに興味がない」ようにも見えたからだ。 村松さんが稀有なのは、「親になったこと」が彼の思想信条や人生観にほとんど影響していないということだ。今まで取材してきた男親たちが、親になったことによる「変化の強要」に戸惑ったり感動したり克服してきたこととは、一線を画している。 これは稀有と呼ぶべきか、不気味と呼ぶべきか。 一般的に、親になるにあたっては、自分本位で子供っぽい考えは捨てなければならないとされる。小さな命を育み、養う身として、滅私せよ。親とはそういうものであるし、それが人間的成長である。昔から巷間(こうかん)ではそう言われてきた。 しかし、村松さんは逆だ。徹底して「自分を変えない」ことで、かつ結婚や育児に期待や熱狂を注がないことで、ノーダメージを貫いた。 しかも、「本質的には自分のことにしか興味がない」「他人を信じていない」という低体温なメンタリティ、本人が言うところの「厨二っぽい考え方」が、結果的に家庭円満を促進したのは、なんたる皮肉か。否、むしろこれこそがベストソリューションなのか。 本当に、家庭円満とはいったい何なのだろう?
聞き手・文=稲田豊史