陸上100mでアジア人初「9秒台」を“表示”した「伊東浩司」 指導者として花開いた第二の人生(小林信也)
最初の挫折は、1992年バルセロナ五輪だった。代表に選ばれ意気揚々と日の丸をつけてスペインに渡った。ところが、レース前にリレーメンバーから外された。オリンピックで走れない喪失感が伊東浩司を苦しめた。
「同じ仕打ちを受けないためには、何かを変えなければと思いました」 伊東が振り返る。 「それで、多くの選手が指導を受けていた鳥取の小山裕史(やすし)さんを訪ねました」 小山はトレーニング施設ワールドウィングを主宰し、後にイチロー選手の指導でも広く知られた肉体改造のカリスマ的存在。当時も陸上競技をはじめ、野球、柔道、水泳など多彩な選手が全国から集まっていた。 伊東にとって刺激的な環境だった。 「競技に直結する筋トレの発想が新鮮でした。飛び込みの日本チャンピオンたちが、筋トレをしては飛び込みのフォームを再現し、競技との連動を確認する姿に衝撃を受けました」 100メートルをより速く走る理想のフォームとは? 伊東には答えの見つからない疑問がくすぶっていた。 「速く走るには膝を高く上げて、両手を大きく振るといいと信じられていました。その代表はカール・ルイスです」 84年ロス五輪で4冠に輝いたカール・ルイスの走りを日本の子どもたちもまねした時代。ところが、 「ニューヨークのレースで一度ルイスと走ったことがあります。スタート直後、左側のレーンから自分を追い抜いて行く彼の腰が私の頭の上にありました。ビックリしました。こんな高さで走るのか……。その時、あれだけ大きな一歩に対抗するには、膝を上げている暇はない、と思いました」 驚きの表情で伊東が話してくれた。世界レベルのストライドは自分とは違い過ぎた。あの一歩に対抗するには「ピッチ走法で勝負するしかない」と確信した。 その手掛かりを伊東は鳥取で見つけた。 「競歩の日本王者で、私と同じ富士通の今村文男さんも小山さんのジムで練習していました。屋外で一緒にアップした時、競歩のスピードに驚きました」 競歩は膝を上げたらファウルを取られる。だから地面を滑るように足を運ぶ。100メートル走とは対極の技法。だがその歩くスピードが、伊東のジョギングよりはるかに速かった。 (これだ! ) 伊東は確信した。それが後に“すり足走法”と呼ばれる伊東独自の走法の原点となった。