巨人から高卒2年で戦力外…「あっちこっちでクビ」も諦めずNPBに舞い戻った“異色右腕”の物語
ドラフトで巨人に指名され、プロ入りの夢を叶えながら、わずか2年で戦力外。テスト入団の広島も1年で自由契約になるも、その後、社会人で5年間プレーを続け、再びNPB復帰をはたした異色の経歴を持つ投手がいる。その男の名は、宇野雅美。 【写真】岡本和真でも村上宗隆でもない…他球団の首脳陣が語る「最も嫌な4番打者」はこちら 京都・花園高のエースだった宇野は、1996年夏の京都大会で決勝までの6試合を一人で投げ抜き、58奪三振を記録したが、決勝で山田秋親(元ダイエー、ロッテ)がエースで4番の北嵯峨に延長10回の末惜敗。甲子園まで「あと1人」となった1点リードの9回2死、ボテボテの三ゴロが内野安打になる間に、二塁走者に同点のホームを許すという不運に泣いた。 180センチ、74キロの右本格派は、府大会準優勝投手の実績とマウンド度胸の良さからプロの注目を集め、同年のドラフトで巨人に5位指名された。 巨人は同年、1位・入来祐作(本田技研)、2位・小野仁(日本石油)、3位・三沢興一(早稲田大)と指名6人中4人までが投手。長嶋茂雄監督も「結果的に投手優先になっちゃったな。投手の部門はいいですよ。うん、良かった」と満足そうだった。 「打撃や守備もいい桑田(真澄)投手が目標」とプロでの活躍を誓った宇野だったが、1年目は球威、制球に課題を残し、イースタンで5試合7イニングに登板も、被安打11、与四球4、失点6の防御率7.71。2年目の98年も6試合登板の1勝1敗、防御率6.48と結果を出せず、わずか2年で戦力外通告を受けた。 現役続行を望んだ宇野は翌99年、広島の春季キャンプでテストを受け、合格。投手不足のチーム事情からウエスタンで21試合登板機会を得たが、1勝4敗、防御率6.07に終わり、1年で再び戦力外に。まだ21歳。「野球が好きで、やめることは考えられなかった」と、社会人のリースキン広島(後にリースキン、現伯和ビクトリーズ)に移籍した。 野球のプロ、アマ交流は、1961年のシーズン中に中日が日本石油の柳川福三外野手を引き抜いた事件(柳川事件)がきっかけで断絶状態となり、以来、アマ側は元プロ野球選手の受け入れを拒否していた。