竹中直人「もっと成長しているはずだった」自分を何者でもないと語る理由
「常に自信がなく、どうせ俺なんかという思いが強かった」と青春時代を振り返る竹中直人さん(66)。多摩美術大学卒業後、劇団青年座に入団。その後、オーディション番組でお笑い芸人として発掘され芸能界デビュー。その後は俳優、映画監督と才能を発揮。メジャーマイナー問わず多くの作品に出演し、独特の存在感を示す。山田孝之さん、斎藤工さんと共同監督した2021年公開の映画『ゾッキ』で貫かれているのは純粋ともいえる“映画愛”。数々の実績を残しながらも「今も何者でもないと思っている」と自身を語る竹中さんの原点、映画への思いを聞いてみた。(ジャーナリスト・中村竜太郎/Yahoo!ニュース Voice)
――竹中さんは子供時代、何になりたかったのですか。 小学生の頃は漫画家です。中高生の頃は美術部にいました。その頃は将来絵描きになりたいな…なんて思っていました。高校一年生の時に、8ミリ映画を撮ったのがきっかけで映像に興味を持ちました。その後、多摩美術大学のグラフィックデザイン科に入学。映像演出研究会という8ミリ映画を作るクラブに入ったことで、卒業したら映画の世界に行きたいと強く思いました。 多摩美時代は自分で脚本を書いて、絵コンテを描いて、8ミリカメラを回して、自分でも演じて…。あの頃の8ミリ映画作りは、本当に楽しかった。だから将来は絶対に映画の道、俳優の道に進みたいと思いました。昔から自分に自信がなく、コンプレックスの塊でした。『どうせ俺なんか』という思考が基本にあります。だから自分じゃない人間になれる俳優という仕事にはとても憧れましたね。 ――大学卒業後は青年座に入団されましたが、芸能界デビューは芸人として。竹中さんがお笑いをやっていたことを知らない人も多くなりました。 僕はお笑い芸人とか、人をジャンル分けするのが苦手です。俳優になりたい気持ちは変わらず、多摩美を卒業してすぐに劇団に入りました。でも食べてはいけない。多摩美時代、『銀座NOW』など、素人のコメディアン勝ち抜き番組によく出ていたので、その時に出会ったテレビ関係者の方を頼って、自分で売り込み活動を始めました。 そんな中、当時の人力舎社長、玉川善治さんにお声をかけて頂き、テレビ朝日の『ザ・テレビ演芸』に出演。グランドチャンピオンになりました。忘れもしない27歳の夏です。やっと風呂付きの家に住めたんです。その番組の司会だった横山やすしさんにもとても優しくして頂きました。 玉川善治さんと出会っていなければ、今の僕はないです。 ――「笑いながら怒る人」はシュールで画期的なネタでしたね。 「笑いながら怒る人」の原型は多摩美時代に撮影した短編映画『首振り地蔵の怪』です。僕がお地蔵さん役で、道ゆく人が地蔵の僕を見て、「なんだこの地蔵?デカすぎねーか?!」と馬鹿にする。すると僕が首を振りながら「ふざけんじゃねー、コノヤロー」と笑いながら怒る。というくだらない8ミリ映画から生まれたものです。同じ多摩美の建築科にいた宮沢章夫(劇作家)がそれを見て「笑いながら怒る人」とタイトルをつけた。まだ僕が21歳だった時です。未だにそれをやってるなんてね。