「恐怖政治の独裁者」ロベスピエールが、今なぜ再評価されるのか――「清廉なポピュリスト」の光と影
「最高存在の祭典」の開催から、失脚・処刑へ
しかし、憲法制定議会が解散し、アラスに帰郷した際、ロベスピエールにも変化がみられる。彼がみたのは、革命に抵抗する「宣誓拒否聖職者」のミサで「奇跡」を信じる民衆であった。ここでロベスピエールが発見した民衆は「無知な人びと」であり、聖職者によって惑わされて「革命の敵」になりかねない存在であった。そのためロベスピエールは、いまあるがままの民衆と一体化するわけにはいかなくなり、民衆像の修正を迫られたのである。さらにアラスでの経験は、教会と司祭の政治的な影響力に対する警戒心をロベスピエールに抱かせた。こうして、教会の影響力を排除しながら民衆をいかに教育し啓蒙していくかが、ロベスピエールの課題となっていく。 1792年9月、国民公会の開幕とともに、王政の廃止が宣言され、共和国が誕生する。国民公会でロベスピエールは「司祭」(ジロンド派のコンドルセの言葉)のようであったという。あくまで代表者と人民の透明な関係性を求めたロベスピエールは、陰謀が国内の隅々にまで浸透していることを告発し、陰謀を企てている者は自ら告白すべきであり、そうすれば許され、人びとの意思は一致すると説いた。また、1793年には、敵に買収された新聞の発禁を訴え、言論・出版の自由を否定するような発言もするようになった。 1793年7月、ロベスピエールは公安委員会に加わり、初めて政府側の職に就く。ここで彼は、あくまで人民と代表の意思の一致した「民主主義」の名のもとに、党派の消滅を訴え、「敵」と「味方」を峻別しながら「内なる敵」の追及に執着し、公安委員会への無限の信頼を要求するようになる。革命の初期には政治難民の受け入れを歓迎していたが、このころには国内の外国人を「敵」とみなし、その逮捕にも賛同した。 1794年5月、ロベスピエールは、民主政治の核心を担うべき「最高存在の崇拝」(=革命のための宗教)を発表した。ロベスピエールによれば、神=最高存在と、霊魂が不滅であるという観念があってこそ、人は社会的であり、共和的でありうる。なぜなら、それによって、たとえ祖国のために不遇の死を遂げようと、人は慰められ、道徳・真理への熱意はいっそう強くなるからだ。こうして同年6月、ロベスピエールは「最高存在の祭典」を主宰した。ロベスピエールは、本来の「民主主義」に必要な人民の一体性、さらには人民と代表者との透明な関係性を、祭典を通じて創造しようとしたのである。しかしその翌月にはロベスピエールはクーデタで失脚し、処刑されることになる。