“死んでも生きる気マンマン”の来場者たちで溢れる「終活フェア」で、禅僧が目にしたシュールな光景とは
ちょうど中年の女性が、棺桶の中に入っている夫をのぞき込んでいました。 「お父さん、どう?」 「うん、なかなかいい寝心地だ」 棺桶に入ったらそのまま焼かれてしまうのだから、寝心地がわかったら大変です。「なるほど、この人は死なないつもりなのか」と思いながら聞いていましたが、なかなかシュールな光景でした。 「主人と一緒のお墓に入りたくないんです! あんなジメジメした暗いところで、死んでまで2人でいたくないですから」と真剣に訴える女性がたまにいますが、これも、死んだ後も「自分」は続いていくと思っているからです。
結局、終活とは、当節なかなかラクに死ねないから、我々業者が手伝ってあげましょうという、死ぬまでの面倒をタネにした商売です。商売はそもそも生きている間だけの話で、死とはまったく関係ありません。 ■二度と死なないとわかれば「地獄」にも慣れる みんな死んでも生きる気マンマンなので、「死後の世界」への関心は尽きません。「あの世」がどんなところか。死んだら自分がどこへ行くのか。地獄か、極楽か、興味があるようです。
なかには、自分が死後どこへ行くのか本気で心配する人もいます。そういう人には、いつもこう話します。 「不安になることはありませんよ。あなたが行けるところなら、天国も地獄も似たようなものです。きっと言葉が通じるし、誰かがいますから。この世とあまり変わりません。それにあなたは、人生で飛び抜けていいことも悪いこともしてないでしょう? だったら、大丈夫。『その他大勢』のところに行きます。先に亡くなった身内もいるはずですよ」
私が思うに、今の「自分」が残るなら、極楽は平和すぎて、そのうち飽きてしまうはずです。どこへ行っても蓮の花が咲いていて、天女が舞っているだけですから。 地獄もすぐに慣れます。針山に寝かされようが、熱湯に沈められようが、もう二度と死なないとわかれば、そんなものの痛さは、たちまち神経痛と変わらなくなるでしょう。永平寺時代、厳しい修行で半身不随になりかかった私が言うのですから、間違いありません。 あの世の心配など、暇つぶしにすればよいだけです。死はどうせわからないのですから、それくらい気楽に考えていい話なのです。
結局、私たちがこの世でできるのは、決してわからない死を、なんとか受け容れる生き方を学ぶことだけなのです。あるいは、それが生きるということの、すべてです。
南 直哉 :禅僧