「隠れてトイレの水を飲んだ」低迷していた名門校…帝京高サッカー部“最後の優勝主将”が明かす、昭和の根性練習「フルマラソンでも水飲み禁止だった」
「授業中に寝たら罰走」
チームにおける昭和的な特殊ルールはあげたら切りがない。たとえば挨拶をできなかったり、教室の掃除をサボったりしたら、約1週間チーム練習への参加が禁止され、罰走を科された。 体育会系的な上下関係もあった。学食で先輩がいたら後輩は立ったまま食事をしなければならず、クレープやお好み焼きが置いてある売店に下級生は行ってはいけなかった。 そして何と言っても現代と異なるのは、練習時間とその中身だろう。 当時は朝練が6時半にスタートし、8時までトレーニング。放課後は16時半から18時半までAチームの練習があり、その後に筋トレやランニングを行う。ボール磨きなどの片付けがあるため、学校を出るのはだいたい20時か21時だった。 「僕は家が比較的近かったので、帰宅は22時くらい。翌朝は4時に起きるので、睡眠時間は4、5時間くらいしかありませんでした。それでも授業中に寝たら罰走なんですよ(笑)」
「フルマラソン走れないやつは、PKを決められない」
長時間練習の極めつけは、長野県・菅平高原の夏合宿だった。 「菅平合宿は、朝から晩までほぼ練習でした。たとえばダボスの丘という約2kmのスキー場があって、下から上へダッシュを繰り返すんです。本数は8本から10本くらいですかね。先生の気分によってスタート地点が変わりました。 そして菅平合宿では、フルマラソンを走るのが恒例行事でした。それも42.195kmではなく、45kmくらいのね」 菅平から鳥居峠を越えて嬬恋村へ行き、Uターンして菅平へ戻るという超過酷なコースである。 「先生には『日常生活をきちんと送れないやつと、フルマラソンを走れないやつはPKを決められない』という哲学がありまして(笑)。『PKと関係ある? 』と思いながらもとにかく走るしかありませんでした。 一番速い選手は2時間50分くらいで走っていましたね。マラソン選手が親戚にいるやつでした。一番遅い選手は7時間くらい。いくら遅くても先生たちは車で迎えにいったりはしない。もはやサバイバルゲームです。 僕が下級生のときにインターハイに出られなかったんですが、そのときは菅平合宿が2回行われ、結局フルマラソンを2回走りました」
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