貴景勝の短くも濃密だった「幸せな現役生活」 担当記者が見た相撲道
大相撲界が「新大関」誕生に沸く中、30場所にわたって看板力士を務めた「元大関」が、28歳の若さで現役を退いた。9月の秋場所14日目。貴景勝は記者会見に臨み、「燃え尽きた。小学3年生から横綱になることだけを夢見て頑張ってきたが、目指す体力と気力がなくなった」と引退の理由を語った。涙は見せなかった。短くも内容の濃い約10年間の力士人生は「苦労もあったが、幸せな現役生活だった」。駆け出し中の新十両の頃、そして現役終盤を共に見てきた記者が、その相撲道の一端を振り返る。(時事通信運動部 藤井隆宏) 【写真】十両昇進が決まり、師匠の貴乃花親方と握手する佐藤=2016年3月 ◆若き日の十両「佐藤」 新十両から2場所目だった2016年名古屋場所。支度部屋で初めて「佐藤」を1対1で取材した。当時のしこ名は本名の佐藤貴信から。この場所、西十両6枚目で5連敗を喫するなど6勝9敗と苦しんだ19歳は「もう一度、幕下でやり直すつもりだった」。表情を緩めることなく、早口でそう話した。 佐藤は兵庫県芦屋市出身。私の祖母が同郷で、その町名を告げると「(自分の実家と)近所じゃないですか」。目を大きく見開き、途端に満面の笑みになったことを覚えている。次の秋場所。東十両9枚目で10勝5敗と奮起した。 当時は立ち合いから一気に押し切るような相撲はあまりなく、体を丸めて何度も何度も相手に当たり、徐々に勝機を見いだす。そんな取り口だった。数年後に大関に就くような「大器ぶり」を感じることは、正直まだなかった。その一方、怪力で知られたエジプト出身の大砂嵐に顔を張られ、佐藤が猛然と張り返したシーンも。気持ちの強さに驚かされ、記者たちの間でも話題になっていた。 ◆たたき上げ力士をリスペクト 支度部屋で冗舌に相撲内容を振り返ることは、あまりしない。代わりに付け人だった貴源治(元幕内)が負けた時は、本人を横に多弁に相撲内容を解説し始める。何度も「俺より潜在能力はあるんですよ。こんな番付にいるはずじゃないのに」と口をとがらせた。 高校相撲で屈指の名門、埼玉栄高時代に世界ジュニア選手権で優勝した。同学年で静岡の高校生だった翠富士にとっては「自分たちの世代のトップを走っていた」という存在。意気揚々と貴乃花部屋に入門したが、最初の稽古で年下だった貴源治に屈し、鼻っ柱を折られた。苦笑いしながら当時を思い浮かべ、「あの瞬間、俺は世界1位から32位ぐらいになってしまった」。中卒たたき上げ力士の実力を肌で知り、以来、彼らをリスペクトするようになったという。 埼玉栄高時代の思い出話も興味深かった。夕食では怖い3年生の先輩たちに肉などのおかずを先に食べられてしまい、自分は「キャベツ専門」だったとか。入学時に130キロほどあった体重が一時は13キロも減ったが、先輩たちが卒業した途端に1週間で大きく戻ったという。相撲部の山田道紀監督には礼儀や掃除など一から教えてもらい、「心で怒ってくれる人だった」と尊敬の念を口にしていた。 ◆認めたくない「ターニングポイント」 21年の春。記者が約4年ぶりに相撲担当に戻ると、十両だった「佐藤」は大関「貴景勝」に出世し、既に2回の優勝も経験していた。稽古場で相撲の話を聞いても仏頂面でつれない返事をされることが多かったが、記者が少ないと「これは(ノートに)書かんでいいから」という言葉を合図にいろいろな話をしてくれた。 初めての上位総当たりとなった17年名古屋場所では白鵬、稀勢の里ら横綱大関陣に歯が立たなかった。特に横綱日馬富士には、「潜り込んでくる頭の軌道が見えた」という低いスピードの立ち合いをされて仰天した。毎日のように体の芯までダメージを感じるような当たりを受け続け、ぼろぼろに。けがも重なり「このまま引退していくのか」と不安が頭をよぎった。 何かを変えなければと思い、好きなだけ食べて飲んでいた生活を見直し、現役でいる間は我慢すると決心。トレーナーと相談して場所の初日を逆算した食事メニューを組んだ。ただし、「(その頃が)テレビや記者さんが強調したがる『ターニングポイント』だとは思いたくはない。上位と当たって力が付いてきたのかもしれないし、ちょうど稽古の成果が出てきたのかもしれないし」。きっぱりと、そう言った。