貴景勝の短くも濃密だった「幸せな現役生活」 担当記者が見た相撲道
稽古場で見せる繊細さ
稽古場では場所が近づくにつれ、大きな鏡を見詰める場面が目立つようになる。体の膨らみや張りを客観的に観察し、相撲を取る稽古に移る時期を探るためだ。「体一つでやっている商売なので人一倍、自分の体に、けがに敏感にならないといけない。白鵬関はその辺がすごいと思う」と語ったことも。 本場所が始まれば、たびたび「準備」の大切さを口にする。「勝負は土俵だけではなく、朝の稽古、夜の食事から始まっている」。前日の晩から何を食べ、稽古場で何をするかなどをいろいろ決めてこなしていく。そうすることで「土俵上の不安を減らせる」からだという。コロナ期間中で外出ができない時期は、妻に頼んで15日間、同じメニューの夕食を食べ続けたこともあった。 勝った理由よりも、負けた理由が明確なことの方が多い。「(勝負に)運が占める割合は低いと思うし、そんなに甘い世界でもない」。連敗する理由は精神的な部分によるものだと分析し、雑念を捨てて臨んできた。「稽古場でやってきたことが本場所に出る。負けていると『あれもこれもやらなきゃ』と土俵で思って、動きがワンテンポ遅れてしまう」 ◆後輩の指導は言葉で理論的に 負けた時ほど、支度部屋で口を開こうと思った時期もあった。「負けてしゃべらない方が格好悪い。対戦相手の立場になっても、自分が負けてしゃべらなかったのを伝え聞くと『ああ、引きずっているんだな』と思うから」。首を痛めても頭から激しくぶつかる立ち合いは変えず、「怖くて当たれないなら、もう引退した方がいい」と言い切ったことも。決して大きくはない体で大関を張ってきた自負がそこにあり、負けん気の源を見た感じがした。 後輩の指導にも熱心。言葉で簡潔に押し相撲の基礎を教えていく。両手と頭の3点を同時に相手につける。腹に力を入れ腰を割りながら前に出る。両手は相手が体をずらしにくい心臓付近を突き、脚の筋力を生かして押す―。理論的で、言葉にして伝えるのも上手だった。 ある日は、ぶつかり稽古で息も絶え絶えの若い力士に、厳しい言葉を投げかけ続けた。稽古後に記者たちがその点に触れると、「あいつは将来強くなるので、よろしくお願いします」と一言。ホッとするような温かい空気が、その場に流れた。 ◆「気持ちで負けたら終わり」 秋場所の初日を3日後に控えた9月4日。1人で常盤山部屋の朝稽古を訪れると、貴景勝は黙々と四股を踏んでいた。部屋の関取、隆の勝が出稽古で不在。ということは、場所の直前になっても相撲を取る稽古が不十分なのか。そう予想できた。好調時なら「冷蔵庫」のような体つきを見せる。それを示す背中や肩の筋肉の盛り上がり具合も、どこか寂しかった。 あえて調整具合などを聞くのもやぼかな、と思った。話題は今夏のパリ五輪に。柔道では一流選手たちが常に負ける姿を想定しながら自分を追い込んでいるという話を振ってみると、貴景勝がボソッと答えた。「戦略的に負けることはあっても、自分は気持ちで負けたら終わりだと思っているから…」。最後になるかもしれない場所への覚悟とも感じ取れる言葉に、こちらも質問を畳み掛けることができなくなった。 場所中の14日目に行われた引退の記者会見。報道陣からの質問も尽きかけた頃、思い切って聞いてみた。「ずっと現役生活を相撲にささげてきたと思うが、引退して趣味だとか、やってみたいな、と思うことは出てきそうか」。多くの記者に見られている緊張感から、自分の語尾が少し震えているのを感じた。貴景勝は、にやりと笑いながら「大相撲に貢献できるような力士を一緒に頑張って(育てて)みたい」。答えらしい答えにはなっていなかったが、久々に笑顔を見た気がした。「湊川親方」として歩む第二の相撲人生。情熱と理論とストイックさを兼ね備えた華のある力士を育てる姿が、今から楽しみだ。