SNS炎上は法律で規制できない?憲法は「表現の自由の権利」をどのように守るのか
表現の自由は“絶対”ではない?
――それでは、「表現の自由の権利」は絶対に守られるべきもの、とはされていないのでしょうか。 志田教授:日本では、戦前や戦中に言論弾圧が起こったことの反省から、憲法学の世界でも「憲法・言論の自由は絶対に守られなければならない」という姿勢が主流でした。 また、日本は同調圧力が強く、言論の萎縮が起こりやすい社会であるからこそ、多くの憲法学者が「表現の自由には強い保護を与えなければならない」と考えてきました。 ヘイト・スピーチについては、日本の法学者たちもその害悪性は認識していました。規制に消極的な論調が長く主流だったのは、「ヘイト・スピーチ」を問題のないものと見ていたわけではなく、「表向きはヘイト・スピーチ規制を目的にした法律が、議員などの公人が自分に対する批判を封じるなどの言論弾圧に悪用されるのではないか」「弱者を追い詰めるヘイト・スピーチを規制するはずだったのに、弱者の発言をあら探ししてさらに追い詰める道具として悪用されるのではないか」という危惧があったからです。 そのため、ヘイト・スピーチなどの悪質な言論も、可能な限り、「言論の自由市場」ないし「思想の自由市場」の中で、社会の自発的な作用によって解消されていくことが望ましい、と考えられてきました。 ヘイト・スピーチ解消法が成立したのが2016年と諸外国に比べてかなり遅くなった背景にも、こういった事情が存在します。この法律が成立して以降、「人格権」保護の形をとって実質的に「差別言論を拒否する権利」が裁判で認められるケースも増えました。 つまり、ごく最近になってから、「表現の自由の権利」は絶対的なものではなくなり、弱者への配慮によって制限され得るものとして相対化されるようになってきました。 ただし、ここにおける相対化はあくまで「一般人どうしで権利が衝突したときには、表現の自由は制限され得る」ということです。国に対して個人が批判をする自由は、最初に確認した原則のとおり、守られるべきです。 なお、企業の経営者などには従業員との立場の差に基づく権力があり、それに伴い「職場環境を健全に保つ責任」が課せられています。 大阪の民間企業で、民族差別的な文書を繰り返し配られて精神的苦痛を受けたとして、従業員である在日韓国人の女性が訴訟を起こした事件でも、従業員側の訴えが認められて、企業には損害賠償が課されました。 法律で権利を扱う際には、当事者間の「力の差」や「責任の差」も考慮されるということです。 ――「人権」と言うと、時代や社会を問わず、どんな人にも平等な権利が生まれつき備わっている、という印象を抱きます。しかし、法律の世界では、時代を経るにつれて「昔はなかった○○権が現代には存在する」 「昔あった××の権利は、もう認められない」といったことが起こるのでしょうか。 志田教授:法律の世界では、権利とは裁判を通じて「発展」するものと考えられます。 ただし、日本の裁判所は権利を認定することに消極的です。たとえ憲法に明記されている権利であっても、具体的な事例において裁判所がはっきりと認めていないため、憲法の記述が “死文”化しているということもあります。 権利を活かすも殺すも、裁判所に委ねられているのです。一部の権利は裁判所によって発展させられてきた一方で、別の権利は、裁判所が認定に尻込みしているために発展が遅れています。 たとえば、同性婚の権利を認定するのに日本の裁判所は消極的ですね。それに比べると、名誉毀損については「人格権」を侵害するものであると裁判所が積極的に認めていき、権利の発展を促進してきました。