とにかく明るい「枕草子」清少納言が悲劇隠した訳 後世に名を残す名作、執筆し始めたきっかけ
この時点では、いつかは伊周が父の道隆のあとを継いで関白となると、周囲も考えていたに違いない。伊周自身も「自分が関白になり、一条天皇と妹の定子の若き夫婦を支えなければ」と大いに張り切ってたことだろう。 清少納言による『枕草子』が誕生したのは、そんな兄・伊周の妹・定子への思いやりがあってのことだった。 あるとき、伊周が一条天皇と定子に紙をプレゼントした。当時、紙は高級品だっただけに「何を書こうか」とずいぶん盛り上がっている。定子はこう言ったという。
「この紙に何を書いたらよいかしらね。帝は『史記』という書物をお書きになられていますわ」 これに対して、清少納言は『史記』から「敷き」を連想して「敷き布団といえば……」「枕でございましょう」と答えたところ、定子から「それでは、そなたにあげよう」と紙をもらうこととなり、清少納言は『枕草子』を書いたのだという。 清少納言が「枕でございましょう」と答えた理由については諸説があるが、『枕草子』を生んだ宮中での心温かな交流は、読んでいて気持ちがほぐされるものがある。
しかし、清少納言が仕えてからわずか2年後の長徳元(995)年に、道隆が急死すると、状況は一変する。関白の座は、道隆の弟である道兼が継ぐも数日後に病死。「七日関白」と呼ばれるとおり、短期政権で終わった。 次なる関白は道長か、伊周か――。そう周囲が注目するなか、あろうことか伊周は、弟の隆家とともに「長徳の変」と呼ばれる不祥事をしでかして失脚。伊周は太宰府へ、隆家は出雲へと左遷させれることになった。 伊周と隆家の兄弟が不祥事を起こしたことで、定子は落飾。出家するという悲運の運命をたどることになる。
絶頂期からどん底へと一気に叩き落とされた中関白家。この失脚劇が周囲に与えたインパクトは大きなもので、藤原実資の『小右記』でもその顛末がつづられている。 ■枕草子では定子の悲劇に触れていない だが、清少納言は『枕草子』で、定子が巻き込まれた悲劇について一切、触れていない。ひたすら明るく楽しかった頃の宮中を描きながら、思わず吹き出してしまいそうな、こんな毒舌も織り交ぜている。 「坊主はイケメンじゃないと説法を聞く気にもなれない」