とにかく明るい「枕草子」清少納言が悲劇隠した訳 後世に名を残す名作、執筆し始めたきっかけ
まさに中関白家の絶頂期に、清少納言は定子のもとにやってきた。 ■伊周と一条天皇が徹夜で漢詩を勉強 定子の姿をただ感嘆して眺めることしかできなかった清少納言。しばらくは、ずいぶんと気兼ねしたようだ。『枕草子』で、次のように振り返っている。 「宮に初めて参りたるころ、もののはづかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々参りて……」 立ち居振る舞いなど何もかもにおいて、気が引けてしまったのだろう。「涙も落ちぬべければ」、つまり、涙がこぼれてしまうほど緊張して「夜々参りて」、夜に参上するようにしていたという。
しかし、そんな清少納言も、月日が経つにつれて、宮中での生活に慣れてきたと思われる。『枕草子』では、一条天皇や定子のそばにいながら、必死に眠気と戦った自身の様子が描かれている。 そのときは、大納言の伊周が一条天皇のところにやってきて、漢詩について講義をしていたという。 「いつものように、すっかり夜が更けてしまった」(例の、夜いたくふけぬれば)とあるので、勉強熱心な一条天皇と伊周が学問について話し出したら、止まらなかったらしい。
眠くなった女房たちが1人、2人と抜けていくなか、清少納言はちゃんと残っていた。だが、「ただ一人、眠たいのを我慢してお控え申し上げていたのですが」(ただ一人、眠たきを念じて候ふに)とあり、かなり睡魔と格闘していたようだ。 「ほかの女房がいるならばそれに紛れて寝てしまうのですが」(また人のあらばこそは紛れも臥さめ)と、出遅れて退出できなかったことを、後悔しているあたりも面白い。 先に限界が来たのは、ほかならぬ一条天皇だった。「柱によりかからせ給ひて、すこし眠らせ給ふ」とあるように、柱に寄りかかって眠ってしまったという。
すると伊周は「もう夜も明けたのに休んでしまっていいのでしょうか」(「今は明けぬるに、かう大殿籠るべきかは」)と寝ている一条天皇に冗談を言って、妹の定子も「ほんとにね」(「げに」)とほほ笑んだという。 こんな兄と妹のほほえましいやりとりが見られたならば、清少納言もがんばって起きていた甲斐があったというものだろう。しっかり『枕草子』のネタにもしている。 ■『枕草子』は伊周と定子の思いやりから生まれた 伊周は「我が世の春」ともいうべく、目覚ましく出世しているだけあって、振る舞いにもゆとりがあり、自信に満ち溢れている。