「ここまで小説に打ち込む作家はいない。稀有な人だ」戦争への憎しみと悔恨を胸に、心揺さぶる人間ドラマを紡いだ山崎豊子先生の素顔
〈エネルギッシュ、好奇心旺盛。世界を相手に堂々とわたりあった、日本が誇る山崎豊子先生の素顔〉 から続く 【写真】この記事の写真を見る(6枚) 前編『 運命の人 』に続き、後編は『 大地の子 』の執筆に伴走した、当時「 文藝春秋 」で連載の担当デスクだった平尾隆弘(元文藝春秋社長)が綴る。小説の主人公・戦争孤児の陸一心は中国人教師夫妻に愛情深く育てられるが、文化大革命など歴史の荒波の中で苦難の道のりを歩み、日本と中国の間で揺れ動く。 情報閉鎖社会の中国での取材は極めて難航し8年にも及んだが、山崎先生は信念を貫いて、持ち前の行動力と度胸で徹底した取材を敢行した。 また、本作の刊行後は、日本に暮らす戦争孤児の2世3世の子どもたちのために『大地の子』などの印税を寄付し、作家という枠を超えて教育支援を続けたことでも知られる。 ★★★
一日中、電話の嵐
山崎豊子先生と初めてお会いしたのは、1987年4月。「文藝春秋」の連載がスタートした直後のことでした。先生は「よろしう頼んますわ。私はひとつの小説に5年も6年もかけてるでしょ。『大地の子』が失敗したら、その苦労が全部パーになってしまうんよ」。そう言いながら右手を上げてパーの仕草をされました。おちゃめで愛嬌のある様子に、緊張がほぐれたのを思い出します。 担当編集者になってから、先生が文字通り全身全霊で『大地の子』に向き合っていることを実感しました。取材と執筆に費やされた7年間、短篇小説もエッセイも書かないし、講演も対談もお断り。旅行やゴルフなどの娯楽は論外で、すべてが『大地の子』なのです。いきおい、昼夜を問わず頻繁に電話がかかってくる。当初ヘキエキ気味だった私は、1カ月もたたないうちに、「ここまで小説に打ち込んでいる作家はいない。先生は稀有な存在だ」と襟を正す気持ちになりました。
取材は普通1回。でも先生は違います
先生は「取材の鬼」という定評があり、事実その通りなのですが、取材が2段階あることは知られていません。まず最初に小説の大枠に沿って、徹底的に取材する。取材したファクトを生かす形でストーリーを練り上げる。 が、この先があるのです。ストーリーを練りながら、もっと面白い展開にならないかを検討する……もしこんな人物がいてこんな行動をしたり、こんな事件が勃発したら、小説が俄然盛り上がる……。で、そうした「望ましいストーリー」を可能にするようなファクトを探し出す。これが2度目の取材となります。先生がすごいのは、2度目の取材の結果、ストーリーを保証するファクトが見つからない場合、その話は捨ててストーリーを変更しないこと。事実の裏付けがない話は、たんなる空想であってリアリティに欠けるというのです。作品の迫力は、こうした取材と創作、現実と想像の往復運動によって支えられていると言えるでしょう。