「ここまで小説に打ち込む作家はいない。稀有な人だ」戦争への憎しみと悔恨を胸に、心揺さぶる人間ドラマを紡いだ山崎豊子先生の素顔
先生の涙
先生から学んだこと、教えられたことはたくさんあります。 物語の前半、主人公である陸一心が、内モンゴルに追いやられ、黄書海という囚人に出会う。黄は日本から帰国した華僑(かきょう)で、一心が日本人だとわかると、母国語を知ることの大切さを説き、彼に日本語の読み書きを教えるわけです。 一心が黄書海と出会うきっかけになったのは、黄が吹いていた口笛でした。先生は最初から口笛の曲を「さくらさくら」に決めておられたのですが、私はちょっと疑念を呈しました。「『さくらさくら』って“いかにも”すぎませんか? 何か他の曲を考えましょうか」と。すると「他の曲はあかん、『さくらさくら』やから良いんやないの」と一蹴されたのです。 同じようなやり取りは、一心が日本を初訪問するシーンでも生じました。彼は信濃の満洲開拓団の人たちと一緒に富士山に行く。そして周囲の人たちの打った柏手(かしわで)で幼年時代の記憶がよみがえります。私は先生に、「富士山となると風呂屋のペンキ絵を連想しちゃう。長野の生まれなら、富士山より常念岳(じょうねんだけ)や御嶽(おんたけ)のほうがリアルじゃないですか」と申しました。先生は強い口調で「いや、富士山やないとあかん!」。
先生は「意見なき者は去れ」がモットーで、いつもは「よう言うてくれた」となるのに、このときは「話にならん」という感じ。「ペンキ絵? けっこうやないの。私は芸術家やない、小説書きなんや。平尾さんはインテリのところがあるな」と言われました。考えてみれば、富士山が、誰もが納得する日本の象徴だから銭湯のペンキ絵になるわけで、ここは富士山じゃないといけない。 他の山に変えるのは一種の気取りなのです。私は、小説の王道を教えられた気がしました。先生は口グセのように「私は作家馬鹿」と言っておられたけれど、ふと漏らされた「私は読者に向けて書いてるの。評論家にほめてもらうつもりはあらへん」といったセリフには、読者大衆と直結している強烈な自負がこめられていたのだと思います。 こうした信念は、登場人物の描き方にも生かされています。「善と悪の振幅が大きければ大きいほど、ドラマとしての面白さが生れる」という先生の言葉は、どう書けば読者の心に訴えかける小説になるか、という問いへの答えではないだろうか。養父母に恵まれ大学を出た陸一心は「明」、牛馬のごとく酷使され文字も読めないまま死んでいく一心の妹・あつ子は「暗」。 連載中、「中国側のさる筋」から何度も抗議を受け、たとえば「あつ子を虐待し病気になっても医師の治療も受けさせない養父母など、中国にいるはずがない」とクレームが来ました。先生は動じる気配もなく、抗議覚悟の上で書かれたあつ子の死の場面は、悲劇の絶頂と言えます。その場に一心と松本耕次(実の兄と実の父)が居合わせ、死んでいく妹を前に、生き別れになった家族が再会する。明暗の振幅が最大限に発揮された忘れられない場面です。原稿をいただいたとき、私は涙滂沱となり、先生にお電話したら先生も泣いておられました。